×

社説・コラム

コラム 視点 「核実験のツケ」

■センター長 田城 明

 広島・長崎への原爆投下からほぼ1年後の1946年7月、米国は中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で第2次世界大戦後初の原爆実験を実施した。以後、エニウェトクを含め、2つの環礁で行った原水爆実験は、58年に中止するまで66回に及ぶ。第五福竜丸などが被災したビキニ事件は、その間に起きた。

 一方、米国に追いつこうと必死だったもう1つの核大国旧ソ連(現ロシア)。カザフスタンの広大な平原に設けたセミパラチンスク核実験場で49年8月、初の原爆実験を実施。以来、90年に同実験場を閉鎖するまでに行った大気圏と地下核実験は、合わせて466回に達した。

 核実験がマーシャル諸島で中止されて半世紀。セミパラチンスクでも20年近くがたつ。だが、核実験が残したつめ跡は、今なお深い。

 第五福竜丸の乗組員やマーシャル諸島の島民、セミパラチンスク核実験場周辺の住民らのように、実験時に大量の「死の灰」を浴びた人々、その後も汚染された地で住み、長年にわたって外部被曝(ひばく)や食物連鎖による内部被曝を受けてきた人たち…。目に見えない放射線の影響は、すでに多くの人々の命と健康を奪うだけでなく、実験後に生まれた世代にまで及んでいる。

 広島・長崎の被爆二世を対象にした健康調査では、これまでのところ非被爆二世との間に健康上の有意差はないとされている。しかし、被曝形態によって次世代への影響は違っているのだ。

 「広島や長崎と比べて、こちらでは先天性障害やがんの発病などの形で、次世代への影響がよりはっきり出ています」。2001年にセミパラチンスク核実験場周辺の村々を取材した折、自らも被曝し貧血症などに苦しむ女性医師から聞いた話だ。

 数十万にのぼる両国の被曝兵士らを含め、「安全保障」の名の下で行ってきた核実験のツケは、限りなく重い。

年別アーカイブ