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社説・コラム

ビキニ被曝(ひばく)から54年 被災した第五福竜丸の元乗組員 大石又七さんにインタビュー

■編集委員 籔井和夫

 静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が、1954年3月1日、中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米水爆実験によって死の灰(放射性降下物)を浴びて54年。生存している11人の元乗組員の1人、大石又七さん(74)に当時の様子や現在の思いなどを聞いた。大石さんは「被曝したときは広島、長崎の原爆投下から9年がたっていたが、被害が広く知られていなかったので放射線のことなど思いもしなかった」と証言。自身もこの間、がんを患うなどした体験を振り返りながら、核兵器廃絶の必要性を強く訴えた。インタビューは、東京都立第五福竜丸展示館(江東区夢の島)に保存されている第五福竜丸の船上で行った。

◆大石さんへのインタビュー Part 1
    「地球が壊れたかと思うほどの衝撃」


Q:被災時の状況は?
 爆発に遭遇したとき、それが核実験だとはまったく思いませんでした。原爆とか、放射能に関する知識が、当時まったくなかったんですよ。そのときは、その爆発は海底爆発、海底噴火かなと思いましたね。当時、海底噴火によって島が一晩のうちに出来上がるということがありましたから。

 ただ、ピカッと光ったとき、不思議なことに音はしなかったんです。光だけが、まだ暗い空全体をさーっと夕焼けのように赤く染めて、しかもその光が消えなかった。だから「何が起こったのだろう、宇宙が変なふうになってしまったのかな」というようにびっくりしました。みんなも「なんだろう、なんだろう」っていう感じで、声も出さずに様子をじっと見ていましたね。

 その後、わたしは船の後ろに行って、朝ごはんを食べていたんです。ご飯を半分ぐらい食べたときに、今度は音が届いたんです。海の上を、ドカーンっていう爆発音が伝わってくるんじゃないんです。下から上に突き上げてくる、地鳴りなんです。ゴーッていうか、ドドドッていうか、非常に大きくて重い音が、下からガーッと上がってきたんです。みんなびっくりして、デッキを歩いていた人は、爆弾が落ちたときのようにばっと伏せました。わたしは食事中でしたので、食器を放り投げて船室に逃げ込みました。「地球が壊れてしまったのかな、この後一体どうなるんだろう」と思いました。

 それから15分ぐらい経ったとき、夜が明けて、空が明るくなってきました。そうすると、水平線のかなたの方、光が出ていた方向に、大きな入道雲を5つぐらい重ねたような雲が見えました。水爆実験によるきのこ雲だったんですね。よく映像などで見るきのこ雲、あれの大きいのだと思うんですが、それが上空まで続いていました。3万4000メートルまで上がったといわれてますから、きのこ雲の頂上は成層圏に届いていたはずです。

 さらに、その1時間半ぐらい後、晴れていた空がきのこ雲で曇ってしまいました。そして真っ白いものが落ちてきた。「南の空だから雪でもあるまい。この白いのは一体なんだろう」と不思議に思いました。そのときは、すでにいつも通り延縄を揚げる作業をしていました。だから、降ってくるものを頭の上から払いのけながら作業を続けました。ところが、それが雪のようにパラパラ落ちないんですね、へばりつくように、体にくっつくんですよ。顔についたのをなめてみたら、溶けないで、砂のようにじゃりじゃりじゃりじゃりしていました。でも、白い粉に放射線があるということは、そのときはまったく分かりませんでした。ただ、白いものが目の中にいっぱい入って作業しにくかったのを覚えています。

◆大石さんへのインタビュー Part 2
    「久保山さんは苦しみぬいて死んだ」


Q:体への影響は?
 さんご礁だったから白かったということは、後から分かりました。その日の夕方から、めまい、吐き気、下痢などの症状が出てきました。ただ、寝込むほどひどくなかったので、みんな口には出しませんでした。その後、2日目ぐらいから、頭など灰が当たったところが膨らみ始めました。中には水がたまっていましたね。それは、放射線によるやけどだったんです。10日ぐらい経ったころ、髪の毛を持っただけでスッと抜けることがあって、ようやく「もしかしたら、あの白い粉に原因があるのかな」と思いました。その後、2週間かけて母港の焼津に帰ってくるんです。その間、船の中に灰がいっぱいあったんです。放射線の灰のある中で2週間すごしてしまったんですね。

 その後、真っ黒に皮がむけてきました。はっきり原因が分かりませんので、最も皮のむけた2人が、専門医に診てもらおうということで、東大に行きました。そして、その翌日、新聞社にそのことが漏れ、記事になって全国に知られました。核兵器の被曝なんだっていうことが、大々的に伝えられて大騒ぎになりました。わたしたちもびっくりしました。

Q:久保山さんの当時の容態は?
 わたしはたまたま久保山さんと同じ部屋に入院したので、久保山さんが亡くなるまで、ずっと様子を見ていました。その悲惨な状況が、今も頭に残っています。当時は分からなかったのですが、輸血によって、C型肝炎ウィルスに全員が感染したんです。久保山さんに一番被害を及ぼしていたのも、C型肝炎ウィルスだと思います。肝臓障害が起こって、脳症を起こして、意識不明になるとか、暴れだすとか、そういうことが起こってきました。ただ、久保山さんだけがそうなっているんじゃなくて、全員そうなっているんです。久保山さんが苦しみながら死んでいくのを見て、その次はだれだろうって、思ってましたね。

 当時、大量の輸血をしました。当時は輸血の設備も悪いですし、体が弱っているところに大量に輸血したので、簡単に感染したと、後でお医者さんが言ってました。だから、わたしも、当然C型肝炎ウィルスを持っていて、がんになっています。手術もしましたが、運よく助かりました。ただ、わたしの最初の子どもは死産で生まれて、しかも奇形児だったんですね。そういう非常にショッキングなことがありました。

◆大石さんへのインタビュー Part 3
    「核兵器は広範な汚染を引き起こす」


Q:日米の政治決着に対する思いは?
 それは被曝した当事者としては納得できません。しかし、時代背景によって、国としてはそうせざるを得なかったのかもしれない。ただ、そのために今も苦しんでいるんだということだけは認めてほしい。今も事件は終わっていない、ひきずって今も苦しんでるんだということだけは、理解してほしいなと思います。

Q:ビキニ実験の教訓は?
 核兵器が使われると広域に汚染が起こる。放射能を含んだ死の灰が大気圏に上がって地球を覆い、それが雨になって落ちてくる。太平洋に落ちたのが、食物連鎖によって、魚などに濃縮されて人間の口に入ってくる。そういうことが、ビキニ事件を通じて分かったんですよ。だから、本来は核兵器をつくってはいけないという方向に、日本の政府が積極的に先頭に立って言わないといけない。しかし、当時の政府は、アメリカの核実験に協力すると、国会で答弁したんですね。その結果、核兵器をどんどんつくらせる方向に世界が進んでしまい、現在は2万発とも3万発ともいわれる核弾頭が世界中に配備されて、人類を脅かしているんですよね。

籔井編集委員のコメント:
 アメリカが実施したビキニの水爆実験で、死の灰を含んださんご礁が、第五福竜丸の上に降り積もって54年になります。大石さんのお話にもありましたように、水爆実験の犠牲者は、その後、肝臓がんなどの病と闘いながら生きてこられました。しかし、日本政府からは何の補償もされていません。置き去りにされた水爆の犠牲者たちがいるということを、わたしたちは、あらためて思い起こす必要があると思います。

ビキニ事件
 1954年3月1日に米国がビキニ環礁で実験した水爆の規模(約15メガトン)は、広島に投下された原爆の約1000倍。第五福竜丸は米政府が設定した危険区域外にいて被災した。乗組員23人は全員急性放射線障害に苦しみ、無線長の久保山愛吉さんが同年9月23日、入院先の東京大病院で死去し、全国に強い衝撃を与えた。放射線を浴びている可能性のあるマグロなどが大量に廃棄処分になった。この実験で被災した日本の漁船は、日本政府の調査で856隻に上ったが、船員たちの健康への影響などの実態は不明のままである。この事件をきっかけに原水爆禁止運動が全国に広がり、翌55年8月、広島市で原水爆禁止世界大会が初めて開かれることになった。このとき集まった署名は3158万3123筆に上った。

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