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社説・コラム

元南方特別留学生 マレーシアからヒロシマ見守り続ける

■兵庫県立大准教授 宇高雄志

 「ああ広島大学。懐かしいですね」。美しい日本語でアブドゥル・ラザク氏(83)は広島大千田町キャンパスの写真に感嘆する。観光の思い出話ではない。63年前、日本統治下に訓練を受け「南方特別留学生」として広島文理大(現広島大)に留学、被爆したのだ。

 出会いは、私がマレーシア科学大の研究員時。同大の副学長がラザク氏の息子と知ってからだ。

 ラザク氏は同国の「日本語教育の父」。日本軍の加圧は、マレー系へは緩かったとされるが、事は単純ではない。マレーシアの友人は「日本に留学させられ広島で被爆した。反日感情もあった。それでどうして日本語か…」と首をひねる。

 私自身、南方留学生を過去のものと思い込んでいた。戦後をどう生きたのか。その人生を知りたくて、首都クアラルンプール郊外に暮らすラザク氏を訪ねたのだ。

 帰国後、原爆症の影響も出ず師範学校に入学。時代は英領からの独立前夜だ。学友と独立運動を始める。「独立に向け一生懸命勉強しよう、と。大東亜共栄圏の精神も話した」。1957年独立。若い多民族国家は国教にイスラームをすえ、マレー文化を高めてゆく。

 時代の高揚のもと、ラザク氏は各地の学校で、国語となったマレー語を教えた。「言葉は道具だけではありません。国を思う精神だよ」。76年放送開始の国営テレビで、ジャウィ(マレー語を表記するアラビア文字)の番組に出演し、一躍有名に。「いやあ照れました」と笑った。

 80年代、マハティール政権のルックイースト(東方)政策で、大学の日本語コース主任に抜てきされる。この時期から日マ交流が進む。中曽根康弘元首相の訪マの際、ラザク氏は叙勲される。

 日本語教育を担い交流の懸け橋となったラザク氏は97年、大学を退官。モスクの導師を務めつつ、ヒロシマを思い続ける。当時の日本人は誰もが優しく輝き、広島の旧友の姿がよみがえる。「懐かしいですねえ。機会があれば会いたい」

 対話も最近は、現在の広島の話が多い。世界遺産・原爆ドームの写真から、ドーム周辺の景観論争が話題に。被爆の惨状を目の当たりにしたラザク氏は「今は新しい広島だから、新しい建物が建つのは悪くない」。生まれ変わった町並みを復興の表れとして歓迎する。ただ、「私は自分の目で見たから」と、複雑な思いもにじませる。

 そのまなざしは遠くマレーシアから、日本と63年目の「新しい広島」を見守っている。

南方特別留学生
戦時中、大東亜共栄圏構想を担う指導者養成の目的で、東南アジア諸地域から約200人の留学生が招聘(しょうへい)された。広島文理大には24人の留学生が学び、2人が被爆死した。

宇高雄志(うたか・ゆうし)
1969年兵庫県生まれ。京都大大学院修了。広島大大学院工学研究科助手を務め、2001年から2年間、マレーシア科学大で研究員。ユニタール広島事務所の「世界遺産保全研修」の講師

(2008年7月10日朝刊掲載)

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