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社説・コラム

原爆が奪った街・夢・命語る 修学旅行生に被爆者3人

■記者 桑島美帆

 広島平和記念公園は、5月から6月にかけて、全国各地から大勢の修学旅行生が訪れる。毎年繰り返される広島の光景だ。先月、慰霊碑の前や原爆資料館の地下で、県外の小中学生たちと一緒に被爆者の話を聞いた。

 証言者は20年以上、被爆体験を語り続けている人たちで喜寿(77歳)を超えていた。原爆で消えた街の記憶、死者に申し訳ないという気持ち、夢を捨ててしまわなければならなかったやり切れなさ…。約1時間の語りは、原爆の惨状や核兵器廃絶を訴えるよりも、むしろ被爆が自分に何をもたらしたのか、に力点が置かれていた。

 孫に話しかけるような語り口調に、子どもたちは聞き入った。語り部が流す涙に、被爆者の心の傷の深さをくみ取っているようにも見えた。被爆から63年の時を経ても、被爆者の肉声は、聴く人の心を打った。

山崎さん  愛する故郷 一瞬で消えた

 「私の家はね、資料館の入り口にあったんだよ。さあおいで」-。山崎寛治さん(80)=広島県府中町=は、明石市立山手小の6年生18人を平和記念公園にある天神町北組(現中区中島町)の慰霊碑に案内した。大きなクスノキの根元に腰を下ろし、周りに子どもたちを座らせた。

 「ちょうどこの辺りかな。集まって鬼ごっこをしたんだ。逃げ遅れたら元安川に飛び込む。今の原爆ドームに忍び込んだこともある。螺旋(らせん)階段の手すりを滑り下りては、見つかってしかられたなあ」

 山崎さんの口からは、次から次へと小学生だったころの思い出話が飛び出す。子どもたちは山崎さんの表情を食い入るように見つめながら、言葉を書き留めている。

 山崎さんは、小学4年のころ繁華街で楽器や古美術品を販売していた父が他界。母と二人で天神町北組に引っ越した。元安川に面した一角で、現在原爆資料館がある辺りだ。

 一発の原爆で街は消えた。母親、伯父、伯母、いとこら、計19人の親類が亡くなった。母親の遺骨は見つかっていない。お骨がない墓石に手を合わせると、無性に情けない気持ちになる。

 「原爆は、私の故郷を奪った。みんなが住んでいる家を思い浮かべてごらん。ふるさとが消えるなんて悲しいだろう?」

 山崎さんがそう問いかけると、子どもたちが大きくうなずく。

 「自分だったら耐えられない」。身を乗り出して話を聞いていた園田樹里子さん(12)は、初めて戦争のことを考え、「いやだな」と思うようになった。

 爆心地から約1.5キロの旧制広島二中(現観音高)で被爆した山崎さん。「髪が抜けたらもう明日は無い」と聞かされ、毎晩髪の毛を引っぱって放射線の恐怖と闘っていた時期もある。

 証言では天神町北組の思い出話に一番力が入る。「原爆で亡くなった肉親のことを思い出して語ることが私にとっての唯一の『供養』なんです」。体験を語ることで、子どもたちが平和と向き合うきっかけになるのであれば、やめるわけにはいかない。

森本さん  惨めな思いさせたくない

 森本範雄さん(80)=西区=は、語り部仲間に励まされ、支えられながら被爆体験を語ってきた。

 声はか細い。なるべく室内でマイクを使う。子どもたちには心で聞いてほしいため、話し始める前に筆記用具やノートはしまうように促す。

 17歳の時、爆心地から1.1キロ地点で被爆。隣に立っていた友人は即死し、気がついたら地面に転がっていた。「友人の陰で助けられ、生かされた」と信じている。

教師になるのが夢だった。結局、終戦期の混乱で進学できず、水道や電気、新聞の集金で生計を立てた。1983年に、あるシンポジウムで被爆証言のピンチヒッターを頼まれた。渋々引き受けたらそのまま説得され、翌年、語り部の会に加わることになった。

 「学校もろくに出とらんのに…」。ちゅうちょする森本さんを変えたのは、証言をしている最中、始めは背を向けていた生徒が徐々に自分と正対し、最後には涙を流すのを目にしたからだ。

 以来、時間をやりくりして、平和記念公園で修学旅行生に語ってきた。仕事で集金のノルマを達成できなかった日、「平和公園でぶらぶらしようるけえじゃろ」と雇い主から言われた。余計意地になり、語り部活動に精を出した。

 四半世紀がたち、励ましてくれた被爆者仲間は年々他界。語りたくても、病院や介護施設から出てこられない仲間もいる。

 被爆体験を語るのは同情を得るためではない。「戦争で夢を奪われ、情けない思いをした。今の子どもたちにはそんな惨めな思いをしてほしくない。戦争の真相を知ってほしい」。この信念で自分をさらけ出している。

郭さん  生き残ったことに罪悪感

 爆心地から900メートル。たくさんの人が一瞬に焼き殺された中区大手町5丁目の家屋で、郭福順(カクボクスン)さん(79)=西区=は被爆し、生き延びた。当時16歳。住み込みの家事手伝いとして働いていた。

 足にはたくさんの傷痕が残っているが、顔にはあとが無い。「うそじゃろう。みんな溶けて死んだんで」。同じ被爆者からでさえ、被爆地点を疑われることもある。自分でも「なぜ生き残ったのか」が不思議だ。

 被爆直後の記憶は断片的にしか覚えていない。話が組み立てられないので、覚えていることをつぎはぎにして、切々と語る。

 語り部を始めて20年になるが、誰に話すときでも、ハンカチを握りしめて証言に臨む。被爆体験を口にすると、必ず同じところでつまってしまい、涙があふれるのだ。

 ぶよぶよに膨れた死体や目の抜け落ちた軍人が川に浮かび、戸板に乗せて運ばれる死体がひょこひょこ揺れていた。語れば語るほど、赤ちゃんも女性も無差別に殺された人たちのことが気になって仕方がない。

 「生き残ってしまった、という郭さんの罪悪感が伝わってきた」。6月19日に、原爆資料館で話を聞いた大阪府交野市の関西創価中二年、若山栞(しおり)さん(13)は、郭さんの心の傷みを自分なりに想像し、涙を流した。

 三男一女を育て上げ、食べていくのに精いっぱいの暮らしだった郭さん。体のあちこちが痛み、地獄のような半生だった、と振り返る。尿道や膀胱(ぼうこう)、腎臓にがんが見つかり、入退院を繰り返す。正直、語り部はしんどい。子どもたちの前でいつも泣いてしまう自分が恥ずかしく、語る資格があるのだろうか、と悩むこともある。

 「生きることに感謝し、犠牲者に代わって被爆体験を伝えることが私の義務であり使命だ」と気持ちを奮い立たたせ、この夏も証言に出向く。

(2008年7月7日朝刊掲載)

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