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社説・コラム

G8議長サミットへ 被爆者からの手紙 <1>

 主要国(G8)の下院議長会議(議長サミット)が9月2日、広島市で開かれる。主要国の立法府のトップが被爆地に集い、「平和と軍縮に向けた議会の役割」をテーマに議論する意義は大きい。今回のサミットが、核兵器廃絶への扉を開く歴史的な契機となるよう「被爆者からの手紙」を届けたい。

漫画家 中沢啓治さん(69)
遺骨も奪った原爆  資料館を丸一日見て感じてほしい


 私は、爆心地から1.2キロで被爆し、奇跡的に助かりました。父と姉、そして弟を原爆に奪われました。  中学卒業後、看板屋で修業し、1961年に東京に出て漫画家のアシスタントになりました。22歳の時です。そして2年後にデビューしました。

 しかし私は、原爆をテーマにした漫画を描こうとは思っていませんでした。家族を奪った原爆のことは早く忘れたかった。当時、東京では「被爆者のそばに寄ったら、ピカ(放射能)がうつる」と言われ、被爆者に対する差別と偏見が横行していました。

 東京に出て5年目の春、「ハハ、シス、スグカエレ」の電報を受け取りました。

 火葬にした母の骨を拾おうとして私はぼうぜんとなりました。灰ばかりで、骨がないのです。私は原爆後の広島でたくさんの人々の亡きがらが焼かれるのを見てきましたから、骨が残るのが当たり前と思っていました。

 母もあの日、原爆を受けて奇跡的に助かりました。しかし、放射線は母の身体をむしばみ、骨の中に侵入していたのでした。原爆は、母の命を奪っただけでなく、骨さえも奪ったのです。怒りがこみ上げてきました。この恨みをはらしてやるぞ、と決意しました。

 東京へ戻る列車の中で構想を考え、寝る間も忘れて原爆と戦争をテーマとする作品に取りかかったのです。そこで誕生したのが「黒い雨にうたれて」でした。その後も、さまざまな角度から、原爆への怒りを作品にし、7年後には「はだしのゲン」を発表しました。

 母が死んだのは42年前。今、世界は冷戦「後」と言われています。しかし、米ロ英仏中5カ国は依然核兵器を保有しています。うち4カ国はこのたび広島に集まるG8のメンバーです。周辺諸国も核開発を進め、放射能汚染は深刻です。

 私は広島に集まってくるG8の議長さんたちに言いたい。せめて丸一日、ほかの予定を入れずじっくり原爆資料館を見てほしい。資料館で、被爆者が原爆のためにどんな体になったのかをしっかり感じて帰ってほしい。

 被爆者である私にとって資料館の展示はもの足りない。なぜなら「声」がないし、「におい」がない。地の底から届くような、叫び声、うめき声。そして広島の街を覆い尽くした死臭…。それを再現しないとあの日のことは分かってもらえないと思います。

 最後に衆議院議長の河野さん。日本も大いに反省すべきです。軍部の暴走を許した先の戦争責任はいまだに明確にされていません。戦争をやめる決断があと10日早かったら、ヒロシマもナガサキもなかったのです。勝ち負けは既にはっきりしていた。それなのに、私たちが核実験のモルモットにされたのは、当時の為政者に大きな責任があると思います。

中沢啓治(なかざわ・けいじ)
 1939年生まれ。げたの塗り絵職人だった父、小学6年の姉、4歳の弟は原爆死。身重で生き残った母は女児を出産したが、この妹も3カ月後に死亡した。ベストセラーになった「はだしのゲン」は、英語、フランス語、ロシア語、韓国語など、10カ国以上の言語に翻訳され、出版されている。

(2008年8月26日朝刊掲載)

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