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社説・コラム

G8議長サミットへ 被爆者からの手紙 <3>

元小学校長 米田進さん(68)
まずは実相見聞を 核兵器廃絶への具体的な一歩に

 G8議長サミットに参加される各国議長のみなさん、被爆地広島へようこそ。「平和と軍縮へ向けた議会の役割」をテーマに、みなさんが広島に集われることを大いに歓迎します。この機会に広島でじっくり被爆の実相を見聞していただくことを切に要望します。

 私は5歳のとき、爆心地から1.5キロのところで被爆しました。母の背中から見た古里の街は、地獄のような惨状でした。街はまるごとつぶれ、人の皮は溶け、炎の海の中をおびただしい数の、けがをした人たちが通り過ぎていきました。

 当時、赤痢で入院していた私と母は、倒壊した病院から助け出されました。数日後、母と私は急性放射能症になりました。近所の人がバタバタと亡くなっていく中、なぜか2人とも生き延びました。

 しかし、それから29年たった1974年、母は原爆症で苦しみながら死にました。59歳の人生はあまりに短く、あっけないものでした。

 小学校の教師をしていた私は、これをきっかけに、私自身の被爆体験をもとにした平和教育を始めました。私たちの体験を語り継げば、核兵器廃絶の心が世界中に広がると思ったからです。

 そして昨年10月、私は米国の中学校で、被爆者が描いた絵を見せながら、被爆体験を語る機会を得ました。話し終わって、生徒同士の自由で活発な討論が行われました。

 1人の男子生徒が「原爆投下は正しかった。戦争を早く終わらせ、100万人の命を救った」と発言。これをきっかけに、多くの生徒から反対意見が出されました。「私も今の今までそう思っていた。でも、被爆体験を聞き原爆の絵を見て考えを変えた。アメリカは原爆を投下すべきではなかった」。これに続いて他の生徒が「原爆は赤ちゃんから老人まで多くの市民を無差別に殺している。かわいそうだ」と言った時、会場全体から拍手がわき起こりました。

 生命の大切さが分かり合えた、と思いました。被爆体験を初めて聞いたという声は他の会場でも聞かれ、被爆者の証言活動を広げることの大切さを実感しました。

 かつて日本は、「聖戦」の名のもとにアジア各地で無差別に大量の殺りくを繰り返してきました。私はこのことを深く反省し、アジアの人々に謝罪したいと思います。その一方で、ヒロシマ・ナガサキで起きたことを二度と繰り返さない。そのための仕組みを、一日も早くつくり上げなくてはなりません。

 日本には「百聞は一見にしかず」ということわざがあります。主要国議長のみなさん、広島に来られたこの機会に被爆の惨状につぶさにふれてください。被爆者の声にじっくり耳を傾けてください。国民の声を代表する立法府のトップとして、核兵器の廃絶に向け、具体的な一歩を踏み出していただきますよう心からお願いします。

米田進(よねだ・すすむ)
 1940年生まれ。44年に廿日市市から広島市へ転居し、被爆。63年から38年間、主に広島市内の小学校で教員生活を送る。74年の母の死に続き89年、父が被爆者に多い多重がんで死亡。1万人以上の被爆者が移送された似島での遺骨発掘作業などにも携わる。98年から広島市原爆被爆教職員の会会長。

(2008年8月28日朝刊掲載)

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