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社説・コラム

カザフの高麗人 <上> 追放から被曝へ 強制移住で多くの死者

■平岡敬さん(「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」名誉会長、前広島市長)

 この夏も、広島大原爆放射線医科学研究所の川野徳幸助教の科学研究費による調査班の一員として、カザフスタンを訪れた。

 調査の目的は、セミパラチンスク(2007年から「セメイ市」と改称)周辺の核実験被害者へのアンケートによる被害実態の解明である。

 「ポリゴン」と呼ばれる核実験場では、1949年8月29日の第1回実験から、実験場が閉鎖された89年までの40年間に、実に470回ものソ連による核実験が繰り返された。その放射能汚染による被曝(ひばく)者は100万人にのぼるといわれている。

 調査班は、毎年、村々を回り、被曝者に面接して、被曝体験を記録してきた。彼らの多くは、目に見えない放射能の働きによって、じわじわと健康がむしばまれていく不安感を訴えている。

 私が関心を抱くのは、被曝者の生活史である。ひとりの人間の人生に与える核被害の影響を探ることは、核と人間との関係を具体的に理解する鍵となると思うからだ。

 核実験の被害者は、カザフ人だけではない。カザフスタンは多民族国家であり、カザフスタン朝鮮人協会が把握している朝鮮人は10万2000人。セメイ市周辺には1470人が暮らしており、被曝手帳を持っている人も多い。

 もともと彼らは、生活苦や日本の植民地支配を逃れて、朝鮮半島からシベリア沿海州に移住した人たちである。主として農業を営み、ロシア人社会で一定の地位を占めていた。

 1930年代、日ソ関係が緊張するなかで、ソ連は「シベリアの朝鮮人が日本のスパイになるのではないか」という不安に駆られた。

 1937年夏、スターリンは朝鮮人の根こそぎ強制移住を命令した。同年末までに、ウズベク共和国へ7万5000人、カザフ共和国に9万5000人が送り込まれた。

 カザフスタンの場合、正確な記録はないが、列車に詰め込まれた朝鮮人たちは、着の身着のまま、冬の迫る荒野に放り出された。飢えと寒さと病気で、老人や子供に多数の死者が出たといわれる。

 しかし、彼らは苦難に耐えて、不毛の大地を豊かな農業地帯に変えて行った。そして、ソ連崩壊後も沿海州に帰らず、定住した。

 彼らは自らを高麗人(コリョサラム)と称する。朝鮮人でもなく、韓国人でもない、というのは朝鮮半島分断のせいであろう。

(2008年9月17日朝刊掲載)

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