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社説・コラム

カザフの高麗人 <下> 遠い祖国の記憶 追いやられた末に被曝

■平岡敬さん(「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」名誉会長、前広島市長)

 セメイ市で老後を送る被曝(ひばく)者キム・イエブゲニヤさん(95)は、耳が遠い。目もよく見えなくなった。息子のテン・ビクトルさん(58)が、耳元で大声をあげる。

 彼女はシベリアのダルニヴォストクで生まれた。祖父は韓国京畿道水原の出身で、ロシアで初めて朝鮮人の村をつくったという。キムさんがハバロフスクで医学の勉強中に強制移住が始まった。両親とは生き別れ。消息が分かった時には、2人とも亡き人であった。

 アルマティ医科大学卒業後、夫とともに医師としてサハリンに赴任したが、1957年にセメイ市に移り住んだ。ビクトルさんが小学校1年生の時である。彼は地震のような核実験の震動を記憶している。小児科医のビクトルさんは「私は今は健康だが、後世代への放射能の影響が気掛かりだ」と、顔を曇らせた。

 老いた母親はひとしきり若いころの苦労話を続けたが、最後に「朝鮮の粥(チュク)が好きだ」と漏らした。

 朝鮮人協会セメイ支部長のキム・レオニドさん(61)も被曝手帳を持っているが、ウズベキスタン育ち。1937年に両親はウラジオストクからウズベク共和国へ送られ、タシケント近郊の集団農場で働いた。

 レオニドさんはタシケント大学卒業後、70年にセメイ市に移り、現在は電話設備会社の社長。「ヒロシマは学校で習った。私は核兵器に反対だ」と言い切る。

 母親は強制移住の時に、恐ろしい体験をしたが、「他人には絶対に話すな」と口止めした。ソ連社会で生きるためである。レオニドさんは「スターリンは許せない」と批判したものの、ソ連時代は将来の生活の心配がなかった、と昔を懐かしんだ。

 カザフの高麗人たちはロシア語で生活し、朝鮮語はほとんど話せない。名前もロシア風で、新しい世代と祖国とのつながりは薄れ、カザフ社会に同化しつつある。しかし、市場で売られている真っ赤なキムチや、アルマティで発行されている「高麗日報」(週1回、3500部)のハン グルが、故国の記憶をかすかに伝えている。

 8月末のステップ地帯の草原は枯れ草色だ。吹き渡る風に秋を感じながら、この荒野で生き抜いた高麗人たちの過酷で数奇な運命に思いをはせる。

 国家の対立のはざまで、故郷を捨てざるをえず、定住したシベリアからも中央アジアへ追いやられ、ついには核実験の放射能にさらされた人たちの祖国ははるかに遠い。

 彼らの歴史は、民衆にとって「国家」とは何かという重い問いを私たちに投げかける。それは核兵器の問題を考える出発点である。

(2008年9月18日朝刊掲載)

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