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社説・コラム

ブラジル日本移民100周年の締めに

■ニッケイ新聞編集長 深沢正雪

 ブラジルで「ヒロシマ」がどれだけ有名か、日本ではあまり知られていないだろう。それは「ヒロシマのバラ」(A Rosa de Hiroshima)という名曲の影響が大きい。

 「耳が聞こえない、精神感応する子のことを考えてごらん」。被爆直後を思わせる歌は「放射能のバラ、なんと愚かで無益な」と締めくくる。単調なメロディーだが、それゆえ吟遊詩人の魂の叫びのように聞こえ、強い印象を残す。当地の学校でもよく歌われている。

 作詞は、ヴィニシウス・デ・モラエスというブラジル大衆音楽の巨匠だ。この曲が発表された1973年は、反体制のニュアンスがある曲を作ったアーティストが次々に国外追放される、軍事政権の全盛期だった。それゆえ反戦ソングとして若者に強く支持された。

 ちなみに、モラエスは映画「黒いオルフェ」の原作者で、世界的に有名なボサノバの代表曲「イパネマの娘」の作詞者でもある。

 サンパウロ市内には「ヒロシマ」を冠した州立学校がある。創立記念日が「8月6日」なので命名された。今年6月のブラジル日本移民百周年式典のため来伯された皇太子殿下が学校を訪れられると、生徒たちは、原爆の悲劇をテーマにした創作ミュージカルや折り紙を披露した。大半は非日系人だ。

 同校をはじめサンパウロ州内の学校では、教育局が進める日本移民史・日本文化教育プロジェクト「ビバ・ジャポン」が熱心に行われている。

このようにブラジルで日本の認知度が高い背景には、百年という歳月と過渡期を迎えた日系社会の存在がある。1908年6月、広島からを含む農業契約移民781人を乗せた笠戸丸がサントス港に着いた。

 現在、150万人に増えた日系人の最大集団地はサンパウロ州だが、次いで多いのは15万人を抱えるパラナ州ではなく、約20万人が住む愛知・静岡・三重を中心とする東海・中部地方という時代になった。日本全体でみれば約32万人が暮らしている。

 戦前・戦後と総数25万人を数えたブラジル日本移民は、今では6万人しかいない。つまり一世は急激に減っているが、日系社会は拡大している。それに連れ、ブラジルにおける日系社会の存在感はますます強いものになっている。

 百年祭は二世中心の日系団体が各地で主催し、ブラジル一般社会と一体になって、かつてない全国的な規模で盛大に祝った。

 北米では移住三代目で完全同化するといわれるが、当地では、100年たっても日本語や日本文化に日常的に親しむバイリンガル層が10万人規模でいる。この層がいる限り、「ヒロシマ」も忘れられることはないだろう。

 「移住時に持ち来し記念の掛時計にぶく光りてくるうことなしに」

 今年創立70周年を迎えた当地最古の短歌誌、「椰子樹」が主催した第60回全伯短歌大会に寄せられた歌だ。作者は、長い年月を経てなお、日本から持ってきた掛け時計が静かに時を刻む姿に、自らの家族の歴史を重ねている。ブラジルの日系社会はこれからもそうである、と思いたい。

 ふかさわ・まさゆき 1965年静岡県生まれ。92年ブラジルに渡り、前身の「パウリスタ新聞」記者を経て2004年から編集長。著書に日本就労者を追った「パラレル・ワールド」など。サンパウロ在住。

(2008年12月26日朝刊掲載)

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