×

社説・コラム

広島平和記念都市建設法60年 復興の礎 薄れぬ役割

■編集委員 西本雅実

 国の特別法として初めて誕生した広島平和記念都市建設法が制定され、60年となる。「この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする」(第一条)。被爆からの復興の礎となり今も存在している平和都市法をめぐり、ヒロシマの歩みに詳しい広島国際大の石丸紀興教授と広島女学院大の宇吹暁教授に幅広い見地から語り合ってもらった。

広島国際大 石丸紀興教授 「理念の明確な発信大切」
広島女学院大 宇吹暁教授 「被爆遺跡の拡大登録を」

 -1949年5月に国会で可決され、新憲法の下で行われた7月の住民投票で91%の賛成を得て8月6日に施行された平和都市法を、どう評価されていますか。

 石丸 敗戦で平和を強く望む時代背景があったが、平和記念都市という考えは戦後の広島である段階で突然に出てきた。市など行政関係者は復興を進めるため、国の予算補助の増額や旧軍用地の払い下げを求める中、法制定の関係者からの助言もあって特別法をつくれば認めてくれるだろうと結びつけた。平和都市とは何なのかが未消化のまま(特別法制定を定めた)憲法第95条にのっとりできたところがある。そのあいまいさが続き、国からのメリットが薄くなると平和都市法への意識も低下した。しかしヒロシマの役割は薄れるどころか増している。平和都市の理念をもっと明確にし、発信することがまさに大切だと思う。

 宇吹 寺光忠さん(広島市中区出身。参院議事部長として法案を起草)の解説書「ヒロシマ平和都市法」(中国新聞社から49年に発行)を読み直して非常に新鮮だった。考えさせられた。一つは憲法への強い意識。9条の見直しが言われる今、恒久平和の象徴と建設をうたう平和都市そのものが憲法と密接に結び付き、今日的な問題としてある。もう一つは、ヒロシマの訴えに国はこれまで一致できないのに、復興からの都市計画でいえば現在の国土交通省、9条の平和主義は外務省、重要文化財は文部科学省(原爆資料館が2006年に戦後建築で初の重文指定)と国が一つになっている。60年の歴史を押さえた法の機能が問われている。

 -国有地の無償譲渡は計34ヘクタールで、補助率も原爆資料館など平和記念施設建設を除けば、49年6月に閣議決定された全国の計85の戦災都市で同じ2分の1でした。平和都市法があったからこそ、他都市の復興と違ったという点は?

 石丸 戦災都市の区画整理事業は全国的にみれば3分の1ほど規模が縮小された。広島は縮小されても中心部の被害区域をほぼカバーして整理を成し遂げた(対象区域は約1060ヘクタール)。浜井さん(初代公選市長の浜井信三氏)は平和都市法を「打ち出の小づち」と表したほど。国も原爆被害の特殊性を意識し、特別視してくれたと思う。精神的な支援も見逃せません。

 宇吹 昨年ゼミの学生と長崎の街づくりを調べに行くと、タクシーの運転手さんが「広島は平和記念公園が中心部にあっていい」という。長崎は爆心地と平和公園が分散し、原爆被害への市民意識も広島と随分違う。原爆しかないのかといった広島のあり方には地元で批判はあるが、他の戦災都市では空襲被害も復興も忘れられていった。だから広島が平和のシンボルになったともいえる。

 -被爆の実態を原爆ドームがある平和記念公園に閉じこめているとの批判もあります。

 宇吹 50年の市勢要覧の表紙は(原爆投下の目標になった)相生橋の向こうに近代的なビルが並ぶ図柄。当時は最高の願いだったとしても、それがずっと続いてきた。原爆被害をそのまま残す発想が育たず来ている。何より被爆者問題が決着していない。都市づくりと人間復興との矛盾やギャップが表だって論じられてこなかった。両方合わせて考えなかったと後生みられるだろう。

 石丸 原爆被害を平和記念公園に集約するのは寺光さんの考えともずれている。丹下さんの公園設計(49年の設計コンペで当時、東京大助教授の丹下健三氏が1等)は広島の都市構造を生かしたが、壊したものもある。平和記念公園の下にはどんなまちがあったのか、記憶をよみがえらせる仕掛けが要る。都市の中で被爆の実態を、平和をどう表現していくかは依然として大きな課題である。

   -市民も来訪者も「恒久の平和」を実感できる都市にしていくには、どんな発想が大切だと思われますか?

 宇吹 被爆遺跡はドームだけでなくユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産の拡大登録を図っていく。旧日銀広島支店やアンデルセン、レストハウスなど広島の遺跡にとどまらず長崎にも声を掛けて拡大を図る。国際的な関心を得ると思う。都市再開発からいえば、平和記念公園ばかりではなく東照宮(東区)の周囲もマンションやビルで景観が損なわれている。城下町広島の歴史は、原爆と復興、現在の都市再開発で壊されている。近世・近代の文化をつなぎ見直す視点が出てきていいと思う。

 石丸 広島大本部跡地(中区)の再開発でも、被爆建物の旧理学部1号館の保存に向け、市は業者に委ねるのではなく、重要文化財の指定を受けて残すようなとるべき施策がある。また、復興事業は市民に立ち退き・移転や大幅な減歩を求めるなど、さまざまな負担を強いた。ユニタール(国連訓練調査研究所)アジア太平洋地域広島事務所での研修や海外からの来訪者にも、復興の内実を提示する紹介があっていい。

   -新広島市民球場(南区)が春に完成するのに伴い、旧軍用地にできた市民球場の跡地利用計画が近く発表され、ユニタールが入る隣接の広島商工会議所ビルの移転も取りざたされています。

 石丸 市の結論ありきではないはず。歴史的にどういう場所だったのか、平和都市建設の中でどう使ってきたのか、市民が学習し、にぎわい創出などさまざまな価値を突き合わせて折り合う必要がある。時間がないといわれるかもしれないが、短絡的な結論はよくない。

 -広島市の街路・下水道・土地区画整理・公園建設の進捗(しんちょく)状況は平和都市法に基づき毎年、内閣から国会に報告されています。この法律から何をくみとり、生かすべきでしょうか。

 宇吹 平和記念式典での歴代市長の平和宣言と首相あいさつを読むと、ちょっとした発見がある。国は今も復興からの賛辞を盛り込む。平和都市法を意識している。市は自分たちの問題は棚上げして外に向かって平和を説くようになった。平和都市法の提案理由に「建設は世界のよ望にこたえる」とある。被爆者援護を国の問題とするのではなく自らの問題として顧みる姿勢が欠落している。原爆被害を個人、都市、国レベルで再整理し、憲法との関係を含めて平和都市法の存在と精神を発信してほしい。

 石丸 行政は復興時において平和都市法を活用したが、精神は市民の間でも行き渡らなかった。物理的には復興と発展を果たし、海外からも称賛される。その段階で終わっていいのか。原爆犠牲者や生き残った人の哀調の上にできた、この都市の意義を市民も国も正しくとらえる。何周年だからと平和都市法を思い出すのではなく、平和記念都市を表す街づくり、市民の生き方をそれぞれの立場から絶えず伝えていくべきでしょう。

 いしまる・のりおき 旧満州(中国東北部)生まれ。東京大工学部卒。広島大工学部教授を経て2003年から現職。著書に「世界平和記念聖堂・広島にみる村野藤吾の建築」「広島被爆40年史・都市の復興」など。07年日本建築学会賞。68歳。

 うぶき・さとる 呉市生まれ。京都大文学部卒。広島県史「原爆資料編」の編さんに当たり、広島大放射能医科学研究所助教授を経て2001年から現職。著書に「平和記念式典の歩み」「原爆手記掲載図書・雑誌総目録」など。62歳。

(2009年1月11日朝刊掲載)

年別アーカイブ