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社説・コラム

「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」に参加して

■セツコ・サーロー

核廃絶訴え、学び、勇気づけられた被爆者

 非政府組織(NGO)ピースボート主催の「地球一周 証言の航海:核兵器のない世界を求めて」は、20カ国23都市を訪問し、1月13日に129日ぶりに帰国した。この航海には、60代から80代の広島と長崎の被爆者103人が乗船。1945年8月の原爆投下後に生まれた胎内被爆者や、幼かったので当時のことを覚えていない人々も含まれていた。彼らは、自分たちのことを「若い被爆者」と呼んでいた。

 航海の目的は、被爆者が多くの国々の人々に直接会って、被爆証言をすることだった。多くの被爆者を乗せた今回の航海は、平和市長会議を支援し、できるだけ多くの市長から「ヒロシマ・ナガサキ議定書」に署名をもらう使命も担っていた。ピースボートが25年にわたって、信頼できるNGOの世界的なネットワークを築いてきたこともあり、各国の自治体、NGO、報道は非常に協力的で、ピースボートや被爆者を歓迎してくれた。

 最初の寄港地はベトナムのダナンだった。枯れ葉剤の遺伝的影響によって重度の奇形に苦しむ子どもたちとの出会いは、被爆者にとってつらい体験となった。多くの被爆者は、同情ではなく共感から、子どもたちを抱きしめて涙した。被爆者にとって衝撃的だったのは、子どもたちを目にしたことだけではない。これらの罪のない子どもたちが、自分たちと同じく、大量破壊兵器による無差別攻撃の犠牲者であるという事実に気づいたからである。広島・長崎とベトナムの共通の加害者は、人間に大きな苦しみを与えておきながら、責任を回避し続けている。

 ベトナムの元副大統領は、日越外交関係樹立35周年を盛大に祝う式典で、戦争の傷を癒すために医療機器や医薬品を提供し続けたピースボートに対して、深く感謝していると述べた。元副大統領はまた、被爆者の訪問を歓迎し、「戦争のもたらす影響を知る人々には、戦争の非人道性を世界に警告する特別な義務がある」と強調した。航海の終盤、多くの被爆者は、このときの体験が航海全体で最も印象的だったと語った。

 ピースボートはベトナムに続いて、シンガポール、インド、エリトリア、エジプト、トルコ、ギリシャ、マルタ、イタリア、スペイン、ドミニカ共和国、ベネズエラ、パナマ、エクアドル、ペルー、チリ、ニュージーランド、オーストラリア、および南太平洋の島々をいくつか訪れた。ほとんどの国々で被爆者は大歓迎され、市役所や公民館、学校や教会などで何度も証言をする機会を得た。北大西洋条約機構(NATO)の核基地が領土内にできることに強く反対しているギリシャやトルコなどの国々では、特に熱心に受け入れてくれた。

 私は、ピースボートのメンバーとして国連総会第一委員会(平和・安全保障関連)に参加するため、3人の被爆者とともに、しばらく船から離れた。そして、国連本部のあるニューヨークへの途上、スペインのバルセロナで大切な発見をした。バルセロナにあるカタルーニャ州議会には、平和・人権委員会があり、私たち代表団の4人は委員会に招待され、全員が議員たちに証言した。その後、昼食会と討論があり、平和と核軍縮の理想に対する彼らの深い理解と真摯(しんし)な取り組みに感銘を受けた。彼らも戦争(1930年代の内戦)を経験し、惨状を覚えているので、被爆者の願いもよく理解してもらえるように思えた。

 ニューヨークでの10日間の滞在中、私たちは時間の許す限り多くの場所で証言し、記者会見(国連ラジオなど)や国連の高官との私的な会合を持った。私たちは広島や長崎の県人会や、スイスのジュネーブからやって来た日本の軍縮大使、地元の団体や人々から温かい歓迎を受け励まされた。

 私は国連総会第一委員会で公式発言をする場を5分間与えられ、この貴重な時間を最も有効に使うにはどうすればよいかを考えた。そして、外交官、特に若い外交官たちに、原爆による悲惨な死や破壊に思いをはせてもらうのが私の役目と、被爆体験を中心に話した。そして国連が着手すべき2つの最も重要な緊急行動として、核拡散防止条約(NPT)の強化と、米国などによる包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准の実現を訴えた。満員の広い会議場が、発言後、温かい拍手に包まれたことをうれしく思う。その後、ギャラリーから撮影していたテレビ局の人から、涙で頬(ほお)をぬらす代表者もいたと聞いた。

 ニューヨークにおけるもう一つのハイライトは、国連ビルで一日中開催された東西研究所の会議に参加したことである。会議は潘基文(バン・キムン)国連事務総長の講演で始まり、続いて米元国務長官のヘンリー・キッシンジャー氏ら軍縮・安全保障の専門家が発言した。私は、被爆者が長年訴えてきたことと同じことを彼らが発言するのを聞いて耳を疑った。冷戦時の緊張とは異なり、パネリストの何人かは、核廃絶とまではいかなくとも核兵器の大幅な削減を訴えていたし、全廃すべきというパネリストもいて、私は非常に幸福感を覚えた。

 ピースボートによる今回の被爆者プロジェクトは、明らかに歴史的なイベントだった。被爆者は、核兵器の問題を世界的な視野で見ることができるようになり、勇気づけられもした。というのも、世界の多くの人々が核兵器廃絶を人類共通の課題とみなし、そのために行動を取り始めていることを知ったからである。

 セツコ・サーロー 1932年1月、広島市南区生まれ。13歳の時、爆心地から1.8キロの学徒動員先で被爆。広島女学院大卒業後、米国へ留学。カナダ人教師と結婚後、カナダへ移住。ソーシャルワーカーとして働く傍ら、反核・平和活動を続け、2007年にカナダの民間人に贈られる最高の栄誉であるカナダ勲章を受章。現在、トロント市在住。

(2009年1月23日朝刊掲載)

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