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社説・コラム

コラム 視点 「二重基準の核政策を変えるべきとき」

■センター長 田城 明

今から38年前の1971年8月6日、現職内閣総理大臣として初めて広島市平和祈念(当時の表記)式典に参列した佐藤栄作首相。台風が残した激しい風雨の中、原爆慰霊碑前から発する首相の言葉に、私も平和記念公園の片隅で聞き入った。

 「26年前、広島がこうむった原爆による破滅的な惨禍は、核の時代をいかに生きるべきかを示す全人類に対する教訓であり、このような不幸を二度と繰り返さないことこそ、われわれ日本国民の悲願とするところであります」

 「わが国は、戦後、世界で唯一の原爆被災国として、人類滅亡の危険を未然に防止するため、戦争の絶滅と国際間の平和秩序の確立を図ることを国是の基本としてまいったのであります」

 佐藤首相は参列した多くの被爆者や市民を前に、力強くこう訴えた。その同じ人物が6年前の65年に、ロバート・マクナマラ米国防長官との会談で、中国と戦争になったときは「米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と、核による即時報復を要請していたとは想像だにしていなかった。

 式典では、ひとりの若い女性が原爆慰霊碑に花輪をささげようとする首相に近づき、参列に対する抗議の意思表示をするハプニングもあった。「あなたは戦争のあと何をしたんだ。あんたなんか帰ってちょうだい」。彼女はこんな趣旨の言葉を叫んだという。昨年12月に外務省が公開した佐藤・マクナマラ会談の外交文書の内容を、当時は関係者以外知る由もない。が、仮に参列者が知っていたとすれば、女性の行為には賛成できなくても、その言葉に共感した人たちは多かったのではなかろうか。

 佐藤氏は、首相退任2年後の74年にノーベル平和賞を受賞した。日本人として後にも先にも初めてのことだ。首相在任7年8カ月の間に、非核三原則の確立や話し合いで沖縄返還を実現したことなどが評価された。

 だが、被爆地の広島や長崎では、違和感をもって受け止められた。米元海軍少将ジーン・ラロック氏の日本への核持ち込み証言の渦中にあって、被爆者団体や平和団体などからは「核安保を推進した張本人」とみられていたからだ。受賞の喜びを語る佐藤氏は、「核が平常兵器となったいま核はごめんこうむるとばかりは言っていられない。核の戦争防止の役割を評価すべきだ」と、核抑止力の必要性も説いた。

 核兵器廃絶を訴える一方で、米国の「核の傘」にすがる日本政府の安全保障政策。佐藤内閣以前も以後も、その姿勢は変わっていない。しかも、非核三原則のうちの「持ち込ませず」は、少なくとも米核艦船に関してはもはや対外的に通用しないばかりか、国内でも形骸化(けいがいか)してしまっていると言わざるを得ない。

 外務省が今回、佐藤・マクナマラ会談の内容を明らかにしたのも、国民の核アレルギーがなくなり、広島・長崎からの強い反発も起きないと踏んでのことであろう。政府は1月9日の閣議で、佐藤元首相が核持ち込み黙認と取れる発言をしていた公開文書に対して「発言は核兵器の持ち込みを容認したものとは考えられず、非核三原則と矛盾するとの指摘は当たらない」と、従来と変わらぬ見解を示した。

 しかし、その言葉に説得力を持たせるには、非核三原則の法制化を進めたり、「核の傘」に依存しない安全保障政策の在り方を積極的に政策に反映したりするなど、一歩進んだ非核政策が必要だろう。

 「核兵器を地球上からなくそう。でも、核兵器で守ってください」。被爆国として他国の信頼を失うダブルスタンダード(二重基準)の核政策を克服すべきときが来ている。

 20日に誕生する米国のオバマ新政権は、核軍縮に向けて大きくかじをきろうとしている。今こそ日本政府も、「核の傘」の保証を米国に求めるのではなく、同盟国として核軍縮・廃絶のための働きかけを強めるべきだ。私たち市民も、被爆地広島・長崎の声を国政の場に届ける努力が一層求められている。

(2009年1月19日朝刊掲載)

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