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社説・コラム

コラム 視点 「元オランダ人捕虜ら在外被爆者支援の充実を」

■センター長 田城 明

 原爆は敵味方、国籍、宗教、人種、老若男女の違いを問わず、すべての命を奪う無差別殺人兵器である。広島では撃墜された飛行機の乗員ら少なくとも12人の米軍捕虜が犠牲となった。長崎ではインドネシアなどで日本軍の捕虜となり、強制労働に従事していて被爆したオランダ人らも少なくない。だが、彼らの存在は、在外被爆者の中でもあまり知られていない。

 厚生労働省や長崎市が保管する「捕虜カード」などで確認されている被爆捕虜数は170人。国別ではオランダ人130人、オーストラリア人24人、英国人16人。うち原爆死は8人で、全員がオランダ人である。

 私がオランダに彼らを訪ねたのは、今からちょうど20年前の1989年。そのうちの一人、オットー・ファン・デン・ベリッヒさんとの出会いは、今も鮮明に記憶に残る。

 ベルギー国境に近い、人口約千人の小さな村エイズデン。すでに退職した、66歳のベリッヒさんは、一軒家に一人でひっそりと暮らしていた。インドネシア系の彼の容ぼうは日本人と変わらない。その顔や首、左腕に残ったケロイドが被爆の事実を無言で語っていた。

 「生きていてよかったことはなにもない。44年間、つらいことばかりで…」。小柄な体につまった思いを吐き出すように彼は言った。

 インドネシア系オランダ人の父とインドネシア人の母の間に、4人兄弟の長男として生まれた。18歳で応召し、1942年3月、インドネシアに侵攻した日本軍によって捕虜となった。各地の収容所をたらい回しにされたあげく、43年4月、「ハワイ丸」で他の捕虜約700人とともに門司へ上陸。ベリッヒさんら約300人は長崎市内の福岡捕虜収容所第14分所へ、残りは炭坑などのある他の収容所へ送り込まれた。

 体力のないベリッヒさんにとって、三菱長崎造船所での重労働はこたえた。栄養失調などが重なり、半年後には肺炎で倒れる。病死する人がいたり、他の収容所へ移された人もいたという。

 45年8月9日、彼は爆心地から1.7キロの屋外で作業中に被爆した。爆風で吹き飛ばされて意識を失い、左半身は熱線を浴びて一瞬のうちに焼けた。意識を取り戻して近くの川に飛び込み、さらに山へと逃げた。

 山の中の収容所で仮治療を受け、2カ月後の10月、米国の治療船でインドネシアへ帰還した。内戦中もボルネオ島で治療を続ける。あごと首の皮がくっつき、首が回らなかった。左腕は曲がったまま。その治療を受けるために47年7月、オランダへ。だが、陸軍病院で最初の整形手術を受けたのは2年後。この間に祖国の白人から受けた心の痛手はあまりにも大きかった。

 「大人からは『おまえらの来るところではない』と言われ、子どもからは『おばけ』と言ってはやしたてられた」

 3年間に7回の手術を受け、首も腕もようやく動くようになった。その後は電気工として会社勤め。しかし、結婚の機会はなかった。80年に退職。白内障が進むなど、健康への不安を口にした。

 だが、ベリッヒさんには、多くの在外被爆者がそうであったように、健康管理手当の支給など日本国内の被爆者が受けることのできる最低限の支援もなかった。外部からの情報が少ない彼に、被爆者健康手帳のことなど知る由もなかった。

 幸い昨年12月、韓国やブラジル、米国などに住む被爆者らの日本政府への長年の働きかけが実って、在外被爆者が来日しなくても、被爆者であることが証明されれば被爆者手帳が取得できる改正援護法が施行された。手続きの煩雑さなど問題は残るが、大きな前進である。

 オランダには今も75人ほどの被爆者がいるという。何の救済もないままに過ぎた歳月はあまりにも長い。だが、今からでもよい。オランダをはじめ、オーストラリアや英国、国交のない北朝鮮など、まだ支援がいきわたらない在外の被爆者に、日本の被爆者と同じ援護法が一刻も早く適用されることを願う。日本の誠意を表すのに、決して時効はない。

(2009年2月2日朝刊掲載)

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