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社説・コラム

ピースボート参加の被爆者帰国 証言活動 世界に輪

 非政府組織(NGO)「ピースボート」の船で地球を一周し、20カ国23寄港地で2000人を超える人に体験を語った被爆者たちが先月中旬、129日間の旅を終えて帰国した。船には広島や長崎、韓国、ブラジルなどに住む被爆者103人が乗り込み、若者ら約600人と船上生活をともにした。被爆者の中には胎内で被爆したり、生まれてまもなく被爆した「若い被爆者」も多く、被爆体験を初めて話した人もいた。寄港地でも船上でも、平和活動の新しい芽生えを感じさせる交流が続いた。

若者と被爆者 問題意識共有
川崎哲共同代表

 被爆者を主役にした「地球一周 証言の航海」を初めて企画した。若者との船内交流も盛んに行われ、従来とはひと味違うクルーズとなった。

 長旅だから時間はたっぷりある。乳幼児期や胎内で被爆した人たちには、証言活動などしたことのない人もいる。そんな「若い被爆者」と、平和活動の経験が豊富な被爆者とがしっかり話し合えた。

 若い被爆者と若者たちの間には相互トレーニングとでも言うべき交流が生まれた。被爆の記憶はないけれど、平和のために何かしたい、何ができるだろうかと考え始めた被爆者。同じ問題意識を持って、「こんなことならお手伝いできるよ」と提案する若者。そこには、平和活動の新しい芽生えがあった。

 7月に出航する次の旅では、被爆者だけでなく若者も招待する企画を考えたい。相互トレーニングを充実させるため、トレーナーにも乗ってもらいたい。

 今回、寄港地の反応はすごくよかった。被爆者が乗っているというと、市長がやってくる。副大統領が「会ってもいい」という。地元のメディアにも引っ張りだこだった。そんなわけで、平和市長会議への参加都市や「ヒロシマ・ナガサキ議定書」に賛同する都市がうんと増えた。そうした勢いが、国連総会第一委員会(軍縮)や核拡散・核軍縮に関する国際委員会(ICNND)での被爆者の証言にもつながった。この成果を、核廃絶への流れに生かしたい。

生きる罪悪感 やっと消せた
藤井美津江さん(69)

 ナチスの虐殺から奇跡的に生き残った男性とギリシャで会った。「生き残って申し訳ないと思うか」。そう尋ねたら「悔いはない。平和のために生きている」と諭され、私の積年の悩みが一掃した。

 川の中に累々と並ぶ死体。死臭漂う広島で見た光景を忘れたことがない。中学卒業後、理容師の資格を得て必死で食いつないだ。でも「生きていていいのか」という疑念が消えることはなかった。

 終戦前に父が戦死。自分と兄と妹を連れ、被爆直後の広島で親類を捜し回った母は、3年後に死んだ。「両親を奪った戦争がいやだ」。世界の人に訴えるため、船に乗った。

 英語で被爆証言をし海外メディアの取材にも応じた。自らの半生を語ると、どの国の人も抱きしめてきた。英語を始めたのは55歳のとき。勉強したいのにできなかった青春を取り戻すためだ。

 スペイン内戦の歴史やベトナムの枯れ葉剤被害…。世界には知らないことがたくさんあった。「もっと勉強して相手のことも知ったうえで、いろんな国で被爆体験と人生を語りたい」。船旅で自分の役目を確信した。

 帰宅から1週間後、英防衛省幹部から手紙が届いた。英国の平和活動家に促され、船上からブラウン英首相に出した手紙の返事だ。これまで外国の政治家に訴えることなど、考えたこともなかった。

 「英国は核軍縮を進めている。核廃絶への機運を高めたい」。通り一遍の内容だが、自分の声が届く手応えを感じた。次は核超大国の実態を調べ、オバマ大統領へ手紙を書く。そして平和記念公園のボランティアガイドも再開するつもりだ。(広島市中区)

戦争被害継承 責任を感じた
渡辺淳子さん(66)

 とにかく世界に目を向けよう。参加して一番感じたことだ。

 戦争被害者が各地にいた。核物質による被曝(ひばく)者も。南太平洋の島々の被曝者の中には、核実験をした国から支援を受けることもなく死んでいった人たちも多い。オーストラリアのウラン鉱山で働く人たちも苦しんでいる。これからは被爆体験だけでなく、戦争が何をもたらすのかについても話したい。

 爆心から18キロ離れた久地村(広島市安佐北区)で2歳8カ月の時、「黒い雨」を浴びた。親は何も語らなかった。25歳でブラジルに移住したが、自分が被爆者であることを知らなかった。38歳で初めて里帰り。親から黒い雨を浴びたと聞き、被爆者として健康診断受診者証をもらった。

 証言を頼まれると葛藤(かっとう)がある。被爆当時のことを覚えていないからだ。6年前、在ブラジル原爆被爆者協会の手伝いを始め、南米被爆者の手記を見つけた。夢中で読んだ。鳥肌が立った。「こういうことだったのか」と納得した。事務所にあった被爆映像も私の証言のベースになった。物心がつく前に被爆した者は、これからどう活動したらいいか。若者にどう引き継ぐか。その責任もある。

 オーストラリアやカナダ、韓国、メキシコに住む被爆者と船で知り合いになった。在外被爆者の連携はこれまでブラジル、米国、韓国が中心だった。幅広く、国際的な連携ができたらと願っている。(ブラジル・サンパウロ市)

「何かしたい」 思い再確認
福田晴之さん(67)

 爆心地から約2.3キロの牛田(東区)で被爆。左半身をやけどした。地球一周の旅に参加したのは、説明会で「被爆者の生の声が必要だ」という話を聞き、やけどや治療の話ぐらいならできると思ったからだ。

 幟町中時代、同じ学校の1学年下だった佐々木禎子さんを悼む原爆の子の像を建設する会の役員をし、全国の学校へ協力を呼び掛けた。被爆から10年後に突然発病した彼女のことを知り、自分を含め同年代の人間は怖い思いをした。

 「何かできないか」という思いはずっと持っていた。高校卒業後に神戸へ移った。まわりに被爆者はいなかった。今回、参加して被爆者同士の連帯感を感じた。具体的なアイデアはないが、これからも何か役に立ちたいと思っている。

 船に乗って、日本の若者が禎子さんのことを知らないことに驚いた。海外の方が知名度が高い。インドでは、「サダコ」を主人公にしたミュージカルを見た。後ろの席で見ていた8歳や10歳の子どもたちがサダコさんのことをよく知っていて、「ヒバクシャ」でなく、被爆して亡くなった「ヒバクシ」と言っていたのが印象的だった。(神戸市垂水区)

ベネズエラに「反核」届いた
井口健さん(77)

 航海の途中、代表団の一員としてベネズエラに2週間滞在。10カ所以上で証言した。「原爆を投下した米国に原爆ドームの保存費用を請求してはどうか」「米国を恨んでいるか」。米国の責任を問う厳しい質問が多かった。さすが反米の国だなと思った。

 「核兵器を廃絶しないと同じ苦しみを味わう人がまた出てくる。だから今は憎しみよりも先に廃絶のために活動したい」と話すと理解してくれた。証言の後、握手を求めてくる人もいた。「一緒にがんばりましょう」と。

 船の仲間と、ベネズエラとの文化交流を進めようと話している。文部大臣の前で証言した時、以前米国の財団に広島の子どもたちの絵を送って交流した経験を話したら「ぜひ平和のためにやりましょう」と言われた。自分たちの活動が、国の大臣も賛同してくれる大きな動きにつながっていると感じた。交流を通じ、核兵器廃絶への活動をサポートするような流れにしたい。平和市長会議への賛同をベネズエラの23都市から集めた。今回の旅で集めたうちの8割以上だ。その点でも成果があった。(廿日市市)

(2009年2月16日朝刊掲載)

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