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社説・コラム

「復興支える」 ゼンペイさんのお好み焼き平和学

 被爆体験とは何か-。原爆が落とされた時のことだけでなく、被爆したその身で戦後をどう生き抜いたか、という年月を含めたものである。広島市役所に勤務する国本善平さん(54)は3年前から、被爆地を訪れる修学旅行生たちにヒロシマを理解してもらうため、広島のお好み焼きの成り立ちを語っている。それは被爆者でない者が、被爆体験を若い人たちにどう伝えていくかという一つの試みでもある。中国新聞が定期連載する「ひろしま国 10代がつくる平和新聞」のジュニアライターに国本さんが話してくれた内容を紹介する。


 修学旅行で広島にやって来る中学生や高校生にお好み焼きのことを話している。「なぜ広島にお好み焼きがあるのだろう?」ってタイトルなんだ。

 このイラストを見てほしい。23年前にボクが描いたもので中国新聞に掲載された。建て替わる前の「お好み村」の中の風景だ。狭い店にお客さんが10人以上も入ってワイワイガヤガヤ。世間話やカープの話題で盛り上がる。ボクは山口県出身で、就職して初めて広島に住み始めた。100万都市の真ん中にこんなアットホームな店があることが不思議だった。しかも、街のいたるところにある。その数は900店ともいわれる。郵便ポストの数より多いかもしれない。お好み焼きがこんなにも愛されている秘密は何だろうと、調べてみる気になった。

 先日、北海道の帯広から高校生がやって来た。帯広の名物って何?と聞いたら、「豚丼(ぶたどん)だ」って言う。肉の量が半端じゃないらしい。どんぶりから、あふれ出るほど盛ってある。帯広は畜産が盛んで、豚肉がおいしい。こうして食ったらほんとにウメエんだぞ、という帯広の高校生たちの誇りを感じた。名物にはそれを生み出す背景や理由があるんだね。

 そこで、広島のお好み焼き。やっぱり広島の自慢だ。独特の調理方法とソース。使われる材料は全国どこでも手に入る。帯広の豚丼のように目立った主役はない。しかし、ごく平凡な材料から、とても非凡な食べ物が創造された。これこそ広島の人々の知恵と歴史が生み出した、誇るべき食文化だと思う。  広島のお好み焼きが今の形になったのは50年ほど前。前身は「一銭洋食」という食べ物。お好み焼きはそれが発展したものだ。

 一銭洋食は、水で溶いた小麦粉を直径十数センチの薄皮に焼いてネギやかつお節などを載せ、しょうゆにウスターソースを混ぜたタレをぬって二つに折り畳んだもの。戦前から駄菓子屋さんなどで売られていた子どものおやつだった。

 「一銭」は1円の100分の一のお金の単位。そんなに安いお金でソース風味の洋食が食べられる、という意味だったのだろう。広島だけじゃなく、西日本一帯にあった。似たような焼き方をする食べものは、中国など外国にもある。一銭洋食がどこから来たのか分かっていないけど、広島には日清戦争のころから宇品港という重要な軍港があった。宇品から中国大陸に出て行って何割かが帰って来た、その兵隊さんが作り方を広めたんじゃないかと推測している。

 一銭洋食が被爆後の広島でどうなったか。ここからが肝心だ。

 1945年8月6日午前8時15分。1発の原爆が広島を壊滅させた。その年の終わりまでに約14万人もの人たちが亡くなった。放射線の影響は生き残った人たちを今もなお苦しめ続けている。

 爆心地から半径2キロ以内の市街地は家屋が全壊全焼した。段原とか宇品とか、その少し外側の町では爆風で傾いたりしたけど、何とか住める形で残った家もあった。そんな家も家族は仕事や建物疎開の作業などに出ていて被爆し亡くなった。家にいた主婦や子どもとかは何とか助かった。

 生き残った人はどうやって生きていくか。まず、食べるものがない。今では想像もできないほど過酷な食糧難に苦しめられた。そんな中で、しちりん火鉢に鉄板やフライパンで一銭洋食を焼いて、生計を立てる女性たちがいた。どの家でもお母ちゃんは忙しく、3度の食事のため台所に立つ余裕はない。「何でも持ってきんさい。焼いてあげるけえ」。空腹の子どもたちは家にある残り物の野菜や冷や飯などを持って、一銭洋食のおばちゃんのところに行った。それを薄皮と一緒に焼いてもらい、食事がわりにした。

 自分の家とは別に、気心の知れた人たちが集まる一銭洋食のおばちゃんの店。ボクはこれを下町の「セカンドキッチン」と呼んでいる。そこには、被爆後の苦しい生活を助け合う互助精神があった。

 子どもやそれから大人たちも、雑多な食材を持ち寄りおばちゃんに焼いてもらっているうちにいろんなことが分かってきた。野菜はキャベツが一番うまい。当時のキャベツは硬かったけど、鉄板で焼くと、ほどよい甘みが出た。観音のネギを入れたらええぞ。肉を入れるなら、最も安い豚の三枚肉。適度に脂が出て、焼くとパリッとする。いろいろと試されて食材が淘汰(とうた)されながら、薄皮はだんだん大きくなり「一銭洋食」から「お好み焼き」に変わっていった。

 そんなふうにして誕生したお好み焼きは、だんだん中心部にも及んでいった。焼け野原には少しずつ建物が建ち始めていたが、原爆で商売の手段を失ったため、屋台を引いておでんやラーメンなどを売る人たちもいた。そんな屋台が、下町で芽生えたばかりのお好み焼きを売り始めた。

 中心部での商売は不特定多数のお客さんが相手だから、味の満足度とボリュームが求められた。焼き方に工夫を重ね、ソースも開発され、そばやうどんも入れるようになった。この中心部の店が、広島のお好み焼きを商品として確立する大きな役割を担った。

 ところで、お好み焼きには、そばとかうどんを入れて焼くのが定番だよね。めん類を入れ始めたのは、経済が成長し始めた昭和30年代初期のころからだ。当然、ボリュームがうんと増えた。それまでのように二つに折り畳めなくなった。現在のような開いた状態で食べるのは、めん類を入れるようになってからなんだ。

 このようにして広島のお好み焼きは、一つの形にできあがっていった。それは原爆による苦労を共にしながら、あたたかい鉄板を囲んでの、作る人と味わう人との語らいの中ではぐくまれたものだ。被爆後の広島の復興や市民生活を支えてきた陰の立役者でもある。だからこそ、広島の人たちにとって、お好み焼きを食べることは、欠かすことのできない暮らしの一部になっていると思うんだ。

国本善平(くにもと・ぜんぺい)
 1954年山口県生まれ。猫舌。だけどお好み焼きは必ず鉄板で食べる。自宅でホットプレートを使った焼き方にもこだわるが、家族が作った方がうまい。3年前から、修学旅行生らに原爆の話とお好み焼き実演の活動をしている。現在、広島市役所原爆被害対策部に勤務。

(2009年3月2日朝刊掲載)

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