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社説・コラム

ヒロシマとパレスチナ 草の根交流できずな深める

■記者 桑島美帆

 1948年のイスラエル建国以来、パレスチナをめぐる紛争は幾度となく繰り返されてきた。互いに憎しみを増幅させているかのように、昨年末からもイスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザへの大規模攻撃が続いた。民族や宗教の相克を越え、報復の連鎖を断ち切るすべはないのか-。ヒロシマのパレスチナ支援者たちは、さまざまな形できずなを深めようとしている。

 「ガザで起きている流血と破壊はすさまじい。街のどの通りも、悲しみと痛みにうちひしがれた家族の話であふれている」。東広島市の服部淳子さん(46)は、イスラエル軍の空爆が激しさを増していた昨年末、ガザにいる水資源技師ヒシャム・マタールさん(47)からメールを受け取った。

 服部さんがマタールさんと出会ったのは10年前。広島で開かれた研修で通訳を務めたのが縁だ。「『自由主義』と呼ばれる国々はただ傍観しているだけ。ガザの人は誰も救われていない」。爆撃下でつづられた言葉に無力感があふれる。

 ガザ地区は広島市の半分に満たないエリアに約140万人が暮らす。イスラエルが設置した分厚いコンクリート壁が周囲を囲み、パレスチナ人の往来は制限されている。

 民家や病院、国連の学校と、イスラエル軍の攻撃は約3週間続いた。「ハマスのテロ攻撃を根絶する」が名目だったが、1380人の犠牲者のうち3割以上は子どもだったと伝えられる。  「ハマスが悪い、イスラエルが悪いという問題ではなく、市民が国家の武力で虐殺された点で、ヒロシマとガザの痛みは同じだ」と広島市立大国際学部の湯浅正恵教授(46)は指摘する。服部さんらと一緒に1月下旬、広島市内でドキュメンリー映画「レインボー」の上映会を開いた。

 2004年5月、イスラエル軍がガザ南部の街ラファを空爆し、40人以上のパレスチナ人が犠牲になったレインボー作戦。映画は空爆で家や家族を失ったパレスチナ男性の生活を淡々と映し出した。

 「なんでこんな目に遭うのか。考えても何も始まらない。だから黙々と支援を続けている」。上映会に集まった主婦や学生ら約100人を前に、パレスチナ支援に取り組む教員神垣しおりさん(50)=広島市西区=がガザ復興援助の募金を呼びかけた。

 神垣さんは10年ほど前から、エルサレムにいる中区出身の水本敏子さん(50)と連携し、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸の女性が作るハンドバッグや小物入れなどを広島で販売。収益金をパレスチナへ送り、彼女たちの自立を目指してきた。

 そんな水本さんとパレスチナ女性が働く現地の事務所は2007年5月、イスラエル軍に破壊された。窓ガラスは割れ、パソコンや資料が盗まれたという。不意打ちの理由は「同じビルにハマス関係者がいた」ということだったと後で聞かされた。

 いまだに謝罪も補償もないが、「黙々と続けることが私たちの意思表示」と水本さんたちは抗議も訴えもせず、作業を再開した。そして神垣さんたちが広島市内でバザーを開いたり、会報を発行したりしながら集めているガザ募金は今月、20万円を超えた。

 「最近ガザに行った人に聞くと、街は人々の怒りであふれ、トラウマに苦しむ子どもがたくさんいるようだ」と水本さん。「殺すことが生きるための手段の一つになっている人たちに、ヒロシマの声をどこまで伝えられるか」。水本さんは自問を重ねている。

 「もっとたくさんの広島の人に、パレスチナ問題を身近に考えてほしい」。ガザの様子を伝える報道が一段落するなか、服部さんは仲間と、アラブ料理を味わう会や、アラブ音楽の演奏会を広島で開こうと話し合っている。「広島とパレスチナの一人一人のつながりが、大きなきっかけを生む」。服部さんはそう考えている。

「自治の木」オリーブで平和の音

 2月下旬、広島市中区の日本福音ルーテル広島教会に、ヨルダン川西岸から4本のオリーブの木が届いた。教会の立野泰博牧師(48)は、この木でパンフルートを作り、広島で平和コンサートを開く計画を進めている。

 ヨルダン川西岸はガザとともにパレスチナ自治区。しかし、自治区内でイスラエルの入植地が拡大し続け、そのたびに、パレスチナ人たちが植えたオリーブの木が切り倒されているという。

 立野牧師は2006年、ヨルダン川西岸のベツレヘムを初めて訪れた。それまで1990年代から4度、聖地巡礼のためイスラエルを訪問した際の「パレスチナは怖い」との先入観は一変したという。「イスラエル側から見ていたときとは全く違う光景が目の前に広がっていた」

 自治区訪問は、被爆60年の2005年に広島に招いたパレスチナ人のキリスト教牧師ミトリ・ラヘブさんとの出会いが契機だった。「爆弾には愛を。武力で平和は築けない」。そう説くラヘブさんは、ベツレヘムを拠点にパレスチナ人のための大学や職業訓練所を開設したり、イスラエル軍の攻撃で破壊された建物の窓ガラスを使った天使の置物を製作したりしていた。

 ラヘブさんに請われて訪れた2006年のベツレヘム。立野牧師が「広島から来た」と言うと、どの子も目を輝かせた。みんな佐々木禎子さんの話を通じ、広島の過去と今を知っていた。

 「彼らは苦しみを乗り越えて平和をつくりだした広島に、自分たちの将来を重ねている」。そう確信した立野牧師は翌2007年、ベツレヘムで原爆展も開いた。

 パレスチナ自治の象徴であるオリーブの木を使ったパンフルート作りは、南区で製菓会社を営む橋本清次さん(66)も手伝う。2歳のときに段原地区で閃光(せんこう)を見た被爆者。爆心地近くにいたらしい父親の遺骨は見つからない。

 「国際政治のことはわからんけど、パレスチナの子どもがどんな思いをしているかは大体わかる。戦争がいけん」と橋本さんは自らの戦後を重ね合わせる。「あせらずに、できることをずっと続けていかんと」。被爆者として周囲に支えられてきたお礼の気持ちで、これからもパレスチナとかかわる決意だ。

イスラエルとパレスチナ
 1947年に国連がパレスチナを分割してアラブ国家とユダヤ国家を建設する決議を採択。翌年、イスラエルが独立を宣言した。多数のパレスチナ人が難民化。1993年のオスロ合意などを経て、ガザ、ヨルダン川西岸の両地区でのパレスチナ人による暫定的自治がスタートした。

ハマス
 1987年にガザ地区で設立されたイスラム原理主義組織で、「ハマス」はアラビア語の「イスラム抵抗運動」の頭文字。イスラエルにロケット攻撃を続けてきた。2006年の選挙でパレスチナ解放機構(PLO)主流派のファタハを制して圧勝。しかし、2007年にハマスがガザを実効支配するなど内戦状態となり、ファタハとの連立内閣は崩壊した。

(2009年3月16日朝刊掲載)

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