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社説・コラム

ヒロシマと世界:広島平和記念公園にて

■ナスリーン・アジミ氏 (スイス人)
 国連訓練調査研究所(UNITAR)広島事務所長

アジミ氏 プロフィル
 1959年3月、イラン生まれ。17歳でスイスへ移住。ジュネーブの国際問題研究所で国際関係学修士号(1986年)、ジュネーブ大学建築研究所で修士号(1997年)をそれぞれ取得。1988年、ジュネーブにあるユニタール環境訓練プログラム・コーディネーターに就任。ユニタール本部長補佐、ユニタール・ニューヨーク事務所長などを歴任し、2003年5月、初代広島事務所長として着任し現在に至る。1994年以来、平和維持に関する出版シリーズを監修し、7冊の本の編集及び共同編集に携わった。紛争後の復興や海洋の環境管理に関する著書も多い。


広島平和記念公園にて

 ここ広島には春が駆け足で近づいている。私の事務所の窓からは、1948年に丹下健三が設計した平和記念公園の全景を見渡すことができる。若き丹下はスイス生まれの近代建築家ル・コルビュジエに心酔しており、丹下の優雅なデザインには、未来へと向かう若々しい熱意と日本的感受性がうかがえる。公園の中央、「平和の池」の中に原爆犠牲者の名簿が奉納されたアーチ型の原爆慰霊碑が立つ。近くの宮島から採火してきたといわれる「平和の灯(ともしび)」が、その後ろで燃えている。

 その北側には、暑さにうだる1945年8月の月曜日、米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が原爆の投下目標としたT字型の橋が再建されている。そして公園の端には、ユネスコの世界遺産であり、原爆さく裂後も形を留めた数少ない建物の一つ「原爆ドーム」がある。今日、ねじ曲がった鉄骨の天頂部をさらす原爆ドームは、反核と平和の象徴となり、専門用語が飛び交う核論議の向こうにぼんやりと見える地獄絵を、声を上げることなく絶えず私たちに思い起こさせる。

 私は広島に住んで5年以上になるが、平和公園に息吹を与えるその精神に、今なお驚きを抱き続けている。建築を学んだ者として、優雅なデザインが持つ絶えざる活力に感服する。これまでも多くの人々がそうであったように、私は地球市民として公園が持つ人にまつわる物語に感動している。毎朝、生花が原爆慰霊碑に手向けられる。あちこちでボランティアたちが地面を掃き、死者を悼みながら心を込めて記念碑の手入れをする。

 広島がひどく困窮していたとき、助けの手を差し伸べた人々のための記念碑もある。私は、優秀なスイス人医師で、赤十字国際委員会駐日首席代表だったマルセル・ジュノー博士の碑をよく訪れる。ジュノー博士は、原爆投下後、病院で切実に必要とされた医薬品を血で染まったこの街へ届けた最初の外国人である。市民の義務として、誰もが生涯に一度は広島か長崎を訪れるべきである。そして、世界の指導者たちには、強制的に訪問を義務づけるべきだ。

 ユニタールは、広島で最初にできた唯一の国連機関である。私はこれまで国連機関がある多くの都市を訪れてきた。しかし、平和公園のすぐそばに掲揚された国連旗に感じるほどの感銘を受けたことはほとんどない。アジアをはじめ世界各国からユニタールの研修のために広島を訪れる何百人という専門家たちが、私と同じ思いを持つようである。ユニタールの研修では、原爆資料館や平和公園の訪問を必ず組み込んでいるが、この体験を通じて変化しない者はほとんどいない。誰もが、核兵器についてより重大で熟慮すべき問題であると考えるようになる。

 広島と長崎は、訪れる人々にときに誤ったメッセージを与えているかもしれない。というのも、両市とも緑にあふれ、活気に満ち、人々が闊歩(かっぽ)する場所があり、少なくとも表面的には他都市と同じように見えるからだ。こうした姿は、往々にして訪れた人々に核戦争から復興することは可能なのではないかという安全保障に対する誤った印象を与えてしまう。

 しかし、現実は決してそうではない。1945年に「リトルボーイ」と「ファットマン」という不似合いな名前を与えられた2個の原子爆弾は、今日の核技術がもたらす破壊力と比べればまったく比較にならないものである。そうでありながら、広島に投下された原子爆弾は、人であれ、建物であれ、自然であれ、半径2キロ以内にあったすべてのものを灰に変えてしまうほどの高熱・高圧の「炉」を生み出し、投下の瞬時とその後の数カ月を合わせ14万人もの命を奪った。死者たちはむごい死を遂げ、生き残った人たちもそのとき死ななかったことを悔いる人生を送ることになった。

 「許すとも忘れない」「核戦争を決して繰り返さない」「軍都から平和都市へ生まれ変わる」―。広島の戦後を導いてきた三つの支柱は、復興を目指す紛争後のすべての国々で思い起こされるべきである。広島は生きることを選んだ。原爆投下後2年間で植樹されたシュロ、マツ、サクラ、イチョウ、クス、カシといった約6000本もの木々を目にした人々は、このことを実感するであろう。それゆえ平和公園は、そこにある記念碑やねじ曲がった木の幹や粛然とした建造物を通じ、「破壊」と「再生」という広島が訴える切実な二つのメッセージを体現している。有形、無形の価値が絡み合ったこの両方のメッセージこそヒロシマの最も重要な遺産である。具体的な街の姿と哲学的な基盤が、被爆地広島をこれほどまでに心に訴える場所にしているのだ。そして、このことはアフガニスタンでも、ニューヨークの世界貿易センタービル跡地でもそうであるように、今日重要な意義を伝えているのである。

 広島と長崎への原爆投下により、日本における第二次世界大戦が終結したと信じ続けている人々がいる。が、私たちはこの神話に正面から立ち向かわねばならない。なぜなら、このような神話が広く信じられていることが、核兵器開発競争に終止符を打つ努力を妨げているからである。この神話は、精神医学者のロバート・リフトンがその著書『アメリカの中のヒロシマ』で的確に指摘しているように、戦後間もなくアメリカで生まれた。日本の帝国陸軍も利己的な理由からこの神話を利用した。

 しかし、広島の立場からすると、このような計算された人為的解釈も、原爆投下は不可避だったと純粋に信じることも、二次的なことである。広島において最も顕著な感情は、二度と人類が核戦争への道を歩んではならない、もし繰り返されたなら人類が危機に瀕(ひん)するとの強い思いである。マンハッタン計画の父であるロバート・オッペンハイマーは、1945年7月、ニューメキシコ州の砂漠で行われた核実験を見届けた際、ヒンズー教の聖典バガバット・ギーターの一節「我は死なり、世界の破壊者なり」を思い起こしたと回顧録の中で書いており、自らが放った怪物の行く末を予知していた。

 核による人類滅亡というパンドラの箱は広島で開けられた。元に戻すには、人類全体の意志と創意工夫が必要である。自分たちを戦争へと導いた愚かなイデオロギーと、アルマゲドンの怒りを広島に放った無慈悲な爆弾の両方の意味を熟考してきた広島市民は、人類が変革と贖罪(しょくざい)の航海をするうえでの水先案内人である。

 私の第二の故郷となった街は、うわべには緑があふれ穏やかに見えるが、その下には傷が残っている。それは、他の人間的悲劇がそうであるように、言葉では言い表すことができないほど悲痛な記憶である。しかし、広島市民はこの地に戻り、街を復興させ、核兵器廃絶に尽力する都市をつくりあげた。初めて平和公園を訪ねた人々も、そのために必要だった市民の勇気と忍耐を理解するであろう。

 原爆ドームは、アウシュビッツと並び、まさしく人類の最も重要な遺産の一つである。私は、平和活動家だけでなく弁護士や医師、ビジネスマンや学術関係者、宗教者や軍事・安全保障担当官らあらゆる階層の人々が、より多く原爆ドームなど平和公園を訪れることを切望している。ユニタールのプログラムに参加する科学者や港湾局員、海洋生物学者、博物館学芸員、建築家、考古学者、世界遺産管理担当官たちがそうであるように、こうした訪問者たちもヒロシマを経験することで変化するだろう。そしてヒロシマのメッセージを携えて国に戻り、核兵器の危険を警告しながら、同時に核廃絶に向けて人々を鼓舞することだろう。

 最近、早朝に平和公園を歩くとき、「平和の池」に新たに設置された異なる言語で刻まれた8個の石板に思いをはせるようになった。この石板もまた、ヒロシマの「平和への祈り」と、私たち誰もが同じ人間であることを喚起してくれている。

(2009年3月23日朝刊掲載)

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