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社説・コラム

コラム 視点 「結ぶヒロシマ・パレスチナ・イスラエル」

■センター長 田城 明

   広島・長崎とアウシュビッツ。3つの地名は、第二次世界大戦で起きたホロコースト(大量虐殺)の地として歴史に刻まれた。広島・長崎の体験は、地球規模での人類と文明の破滅を想起させる危険な核時代の到来として、アウシュビッツのそれは、反ユダヤ主義、人種主義による虐殺がどのようなものかを示すものとして。

 原爆の惨禍を生き延びた被爆者ら広島・長崎の市民は、幾多の苦難を克服しながら、廃虚と化した地に再び街を復興させた。

 すべての被爆者が時間の経過の中で、原爆投下国への憎しみを消し去ったわけではない。心や体に受けた傷が簡単に癒えたわけでもない。人前で体験を語る被爆者より、語らぬ被爆者の方が多いのも事実。だが、米国や旧ソ連をはじめ止まらぬ世界の核開発競争を前に、被爆者は戦後早くから、ときには自らのケロイドをさらして人類の未来に警鐘を鳴らし、核兵器廃絶と世界の平和を訴えてきた。

 「力の文明から愛の文明へ」と思考の転換の必要を訴え、「報復ではなく和解を」「武力ではなく対話を」と唱えてきた。被爆地を訪れた人々は、核戦争がもたらす被害の実態を学ぶだけでなく、被爆体験に根ざしたヒロシマ・ナガサキの平和思想に触れて共感を覚えたり、希望を見いだしたりしてきたのである。

 一方、ドイツをはじめヨーロッパ各地で600万人もの犠牲者を出したユダヤ系市民の一部は、大戦後、安住の地を求め聖書に記されたパレスチナへと移住した。このためもともとそこに住んでいた多くのパレスチナ人が土地を失い、難民化した。ユダヤ人たちは1948年にイスラエルを建国。以来、パレスチナ人や周辺のアラブ諸国から国家と国民を守るために軍事力を増強し、ネゲブ砂漠の地下で原爆をも開発、保有した。

 ホロコーストのむごさ、非人道行為を記憶するイスラエルの人々は、だれよりも戦争の悲惨を知るはずである。一方で市民の間には「自衛手段を持たなかったから、自分たちに悲劇が起きた」との思いも根強くある。過敏な防衛本能が働き、軍事力にものをいわせてパレスチナ人の子どもや女性ら罪なき多くの非武装市民の命をも奪う過剰な攻撃。その攻撃がパレスチナ人のさらなる抵抗を生み出す。暴力と憎悪の連鎖はいつまでも止まらない。

 「私たちの心は広島の犠牲者とともにあります」。1997年11月に被爆地を訪れたイスラエルのシモン・ペレス現大統領(元首相)が、原爆資料館の芳名録に記帳した言葉である。その言葉にうそはないだろう。だが、昨年暮れから3週間余り続いたガザへの大規模な攻撃を指示したのも、ペレス大統領らイスラエル政府だ。ペレス氏は、そのときも犠牲者の側に立っていたと言うのだろうか。「自衛」や「防衛」の名において、その行為は許されるのだろうか。

 作家の村上春樹さんは、2月にあったイスラエルの文学賞「エルサレム賞」の授賞式で、子どもら非武装市民を含む1300人以上の犠牲者を出したガザ攻撃に言及し、次のように述べた。

 「わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。…わたしは常に卵の側に立つ」「高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる」「壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる」(2月17日付本紙より引用)

 イスラエルのガザ攻撃に対する率直な批判である。かつてのドイツや日本、そして多くの国が同じ過ちを犯してきた。それは強国と呼ばれる国だけでなく、アフリカなどで今も続いている。イスラエルも「国家」という制度によって同じ過ちを犯しているのだ。

 イスラエルで反核運動に取り組む医師は、かつて私にこう訴えた。「憎悪が支配するこの地の空気を破るには、外からの空気がいる。ヒロシマのスピリット(精神)を運んでほしい」。広島を訪問したパレスチナ人の神父も「不信や憎しみを超え、パレスチナとイスラエルの人々が、同じ人間として理解をはぐくむのに、広島ほどふさわしい地はない」と語った。

 被爆地の市民は今、以前よりもパレスチナ問題に関心を向け始めた。現地の状況を知ると同時に、広島が果たしうる役割についての認識も徐々に深まり、支援の輪も広がりつつある。

 パレスチナ問題の解決は、決して容易ではない。しかし、被爆者ら市民が運ぶヒロシマのスピリットは、「平和の種」となって彼(か)の地にきっと根付くだろう。

(2009年3月16日朝刊掲載)

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