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社説・コラム

原爆ドームと平和記念公園の「価値」を見つめ直す ユニタール研修

■記者 桑島美帆

 「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設する」。崇高な目的を掲げ、平和記念公園建設の基となった広島平和記念都市建設法(平和都市法)は、8月6日に施行60年を迎える。ヒロシマの象徴である世界遺産・原爆ドームと平和記念公園。4月、国連訓練調査研究所(ユニタール)広島事務所は、5日間にわたって、広島の世界遺産の保全を考える国際的な研修会を開いた。そこでの議論を通して、原爆ドームと平和記念公園の「価値」をあらためて見つめ直した。

教訓や歴史を議論

 むき出しの鉄骨が幾重にも交差する。「この鉄骨がないとドームは倒れる。『被爆直後のまま』を保存するため引っ張り合って支えている」。広島国際大の石丸紀興教授(68)が研修生を原爆ドームの中へ案内した。

 広島にある2つの世界遺産・原爆ドームと厳島神社についてユニタール広島事務所が毎年開くワークショップ「世界遺産の管理と保全」。6年目の今年は「平和のための保全」をテーマにアジア太平洋地域24カ国から約40人が参加した。

 「原爆資料館、慰霊碑、原爆ドームを貫く南北軸がある。丹下さんは『犠牲者の追悼だけでなく、新たな平和づくりへつなげてほしい』との思いを込めた」。平和公園のフィールドワークで石丸教授は公園を設計した故丹下健三氏の意図を解説。ドームの北にある基町高層アパートや2004年に軸線の南端にできた市環境局中工場の設計にも触れ、「戦後の街づくりにも、この軸線が意識されている」と述べた。

 「犠牲者の鎮魂や平和への祈りなど、公園の細部にまで意味があることに感銘を受けた」とタイ文化省のハッタンヤ・シリパッターナークンさん(33)。アフガニスタンで博物館の文化財を扱うレザ・シャリフィさん(30)は「長引く紛争で荒廃した国に住む自分にとって、平和公園は強く心を打つ。アフガンの人々にも『平和』を感じる空間が必要だ」と感じた。

 壊滅した広島の復興を目指し、地元の議員らは終戦直後から国へ陳情を繰り返し、資金援助を求めた。その過程で1949年に平和都市法が成立。繁華街だった旧中島本町一帯に平和公園を整備することが決まった。

 「ニューヨークでさえテロ跡地のコンセプトは定まっていない。広島の中心部にある平和公園と原爆ドームは、被爆体験と復興を具現化し、どの国にもない特異な遺産だ」。ユニタール広島事務所のナスリーン・アジミ所長は強調する。

 原爆ドームの保存が決まったのは平和公園完成から12年後の1966年。「被爆を忘れたい」と解体を望む被爆者もいて、故浜井信三市長は「金をかけてまで残すべきではない」と、当初保存に反対していた。しかし、子どもたちを中心に保存運動が広がった。

 「あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろうか」。中区平塚町で被爆し、1960年に急性白血病で16歳の生涯を閉じた楮(かじ)山ヒロ子さんが書き残した日記が、子どもたちの募金や署名活動の発端となった。

「被害前面」の声

 「遺体があちこちに転がる中を母の背に負ぶさり逃げた」。カンボジア文化芸術省のキム・ソティンさん(37)は、8歳の時に体験した記憶を広島で思い起こした。「原爆ドームはあらゆる戦争の教訓を刻んでいる」

 「平和公園は被害が前面に出ている。日本軍に苦しめられた韓国の人のことを思うと、少し疲れた」。そう吐露する韓国の非政府組織(NGO)職員ユー・ソウヤンさん(29)。同時に「どんな人々が保存運動を推進したのか」と、原爆ドームと公園建設の「背景」に関心を寄せる。

 ユーさんは1953年に朝鮮戦争が停戦して以降、南北を分断する非武装地帯(DMZ)の自然を保護し、平和へ向けた世界遺産化を目指す活動に取り組む。「朝鮮戦争を体験した祖母の世代は北朝鮮を敵視し、この活動への反発も強い。広島の歴史から打開策を見つけたい」と言う。

 「平和都市法成立に奮闘した議員や、原爆ドーム保存に携わった人々の思いにも目を留めるべきだ」。石丸教授は、広島の「軸線」を意識した復興史や、公園の下に庶民の生活空間があったこともしっかり発信すべき、と指摘する。

 緑豊かな平和公園は憩いの場として定着する一方、慰霊碑の周りで騒ぎ、ごみが散乱する光景も目にする。原爆ドームの世界遺産登録から13年。保存の意味への関心は薄れつつある。地元の人たちにこそ、ドームと平和公園が持つ「価値」を考え直す場が必要なのではないだろうか。


ハン・チュンリー所長(54)に聞く

 -原爆ドームと平和記念公園の「価値」をどうみますか。
 人類史上初めて核兵器が使われた広島の原爆ドームは、第二次世界大戦の悲惨な経験を物語る。核兵器廃絶と恒久平和の大切さを訴えるとともに、科学技術の使い方を間違えれば残酷な結末を生む警告も発している。ユニタールの研修は毎年、アジアや中東など紛争地域からの参加者も多い。平和公園を歩いてドームを見るとき、「心の中の平和」づくりにつながる。

 -世界には今なお約2万5000発の核兵器が存在し、戦争が絶えません。原爆ドームと平和公園は役割を果たしていますか。
 オバマ大統領もプラハ演説で「核兵器廃絶は容易ではない」と述べている。中東をはじめ紛争状態にある地域は、歴史や宗教、民族問題などが複雑に絡み合う。だが「人類共通の平和記念碑」を次世代のために保存する広島の努力は世界平和に貢献している。

 数年前、広島の研修に参加したイラク政府の職員が、イランとの国境沿いに平和公園をつくる提案をした。広島で彼が考えた構想が実現すれば、両国が過去の悲惨な経験を記憶し、子どもたちのために平和へ向けて団結する動きにもつながる。

 -アジア各国の研修生からは、被爆だけでなく、日本の加害の歴史も触れるべきだという指摘がありました。
 17歳前後だった私の叔父は1943年ごろ中国山東省の実家から日本軍に連行され二度と戻らなかった。母は私に淡々と語ったが、中国や韓国、アジア各地から広島を訪れる人の中には、悲惨な戦争の記憶を持つ人も多い。

 広島の遺産は、原爆被害と戦争の悲劇を語り恒久平和を強く訴えているが、「平和」は部分的な側面では語れない。アジアの人との対話を深め、戦争の文脈を客観的に把握するなどの努力が必要だ。そうすれば原爆ドームのメッセージはより強固なものになる。

 -原爆ドームの老朽化は進み、工事費などがかさみます。周囲のビルの高さ規制への理解も進みません。
 バーミヤン遺跡など国境を越えて遺産を支える動きが広がっている。地域で足もとの世界遺産の価値を見つめ直せば、大切に守ろうという意識が芽生えるはずだ。原爆ドームがいかに長く保存できるかは広島の人々の力による。

ハン・チュンリー 1980年中国科学技術大卒。89年ユネスコ・パリ本部に勤務、98年ユネスコ・ジャカルタ副所長、2007年9月から現職。ユニタール広島事務所の世界遺産研修では、初回から講師を務める。北京市生まれ。

(2009年5月18日朝刊掲載)

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