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社説・コラム

韓国原爆被害者協会名誉会長 郭貴勲さん広島で講演

■記者 明知隼二

 2500人を超える在韓被爆者は、日本の植民地支配のあおりで広島や長崎にいて原爆に遭った人も多いのに、長らく援護から放置されてきた。裁判闘争を経て次第に「日本国内並み」に近づいたものの、その差が完全に埋まったとは言い難い。

 徴兵され、広島で被爆した郭貴勲(カクキフン)さん(84)は、1967年の韓国原爆被害者援護協会(のち韓国原爆被害者協会に改称)設立にかかわって以来、同胞たちへの援護の実現に尽力してきた。現在も協会の名誉会長を務める。

 在外被爆者の長い裁判闘争の歴史でも、海外での健康管理手当の受給を勝ち取った郭さんの裁判は、在外被爆者を援護から排除し続けてきた旧厚生省通達の廃止につながる大きな一歩となった。

 郭さんはこのほど、韓国の原爆被害者を救援する市民の会(市場淳子会長)の招きで広島市中区で講演し、在韓被爆者の歩みを語った。要旨を紹介する。

無関心や政治の壁 闘い続けた戦後

 韓国に協会ができたのは1967年7月。日本政府に謝罪と補償を求めたが、韓国政府も社会も全く関心を持ってくれない。調べてみると14年間にわたる韓日国交正常化交渉で、被爆者のことは一度も話題になっていなかった。

 当時、韓国の政府高官にも被爆者はいた。また、1964年には韓国原子力院放射線医学研究所の呼びかけで203人の被爆者の存在が分かり、さらに1965年には大韓赤十字社の調査で462人が出てきた。政府は被爆者の存在を知っていた。

 なぜ韓日の交渉で言及しなかったか。私は米国の影響ではないかと推測している。(一般的に)原爆使用は非人道的だと言われていたので、米国の絶対的な影響下にあった韓国政府は、被爆者について言いだせない状況にあったのではないか。韓国政府はその後も米国の顔色をうかがい、被爆者問題に誠意を持とうとしなかった。

 社会も無関心だった。むしろ、原爆投下によって日本からの独立が早まったという考え方は韓国社会に根強い。韓国人の原爆犠牲も大きかったと説明しても「独立のため甘受しなければいけない」と言われてしまう。被爆者の窮状や協会の訴えに、誰も耳を貸してくれなかった。

 そんな中、1970年に孫振斗(ソンジンドゥ)氏が治療を求めて日本に密航し、1972年に被爆者健康手帳の交付を求める裁判を始めた。私たちはすぐに送還されて終わりだろうと思っていたが、広島の人たちは孫さんが送還されないよういろいろ手を尽くしてくれた。一審と二審、さらに1978年の最高裁での勝訴に向けた大きな力となった。

 1990年、日本政府は在韓被爆者の医療支援のために40億円を出すと表明した。補償金ではなく、あくまでも「人道的」な支援金とし、その用途も治療、健康診断、被爆者のための福祉会館建設などに限った。手当として個々の被爆者に現金を渡すのは補償にあたると考えたからだ。

 それでも私たちは、銀行に預けた運用益から月10万ウォン(約8000円)の「診療補助費」を被爆者に配った。しかし、陜川(ハプチョン)原爆被害者福祉会館の建設に資金を投じたことや、経済危機で銀行の利子がゼロになったことなどから、結局、拠出金は底をついた。

 韓国政府は被爆者の保険医療の本人負担分を一部負担するなどの援助をしてきた。日本の拠出金が無くなったのを受け、2003年に被爆者のために20億ウォン(1億6000万円)を拠出した。それ以降、韓国政府によるまとまった支援が続き、現在は協会に登録している被爆者約2700人の診療補助費も政府が負担している。

 現在、在韓被爆者への援護は日本とほとんど同じだとされる。月額3万3800円の健康管理手当と、年間14万5000円までの医療補助費に加え、韓国政府が出す診療補助費が月10万ウォンある。飢え死にはしないし、病院にも行ける。

 残った問題は何か。まず、今は韓国で手帳の申請ができるが、協会に登録している約2700人のうち手帳の無い人がまだ170人ほどいる。いまさら証人を探すのは無理な話だ。政治的な解決しかない。

 また、日本の被爆者と違って年間の医療補助費が限られていることも問題だ。これは上限を外すべきだ。

 最後に、原爆症認定の問題だ。韓国では4月までにやっと17人が認定された。協会の被爆者の4%、約100人は該当すると私はみている。発掘しないといけない。

 被爆者はどこにいても被爆者。私が健康管理手当の支給をめぐって争った裁判でも、高裁の裁判長が判決文にそう書いてくれた。これは真理だと考える。

 来年は日本の植民地になって100年。忘れるもの、記録するもの、あくまで追及するものを区別していこうと私は主張している。日本政府も謝るものは謝り、少し大きな目で再出発しようじゃないか。

 また、日本にも韓国の被爆者を助け、過去の侵略に対する日本政府の反省を促そうという人がたくさんいる。その人たちと手をつなぎ、100年祭をやりたいと考えている。

郭貴勲(カクキフン)
 1924年、全羅北道生まれ。師範学校5年だった1944年、朝鮮人の徴兵1期生として広島市の西部第2部隊に入り、爆心地から約2キロの工兵隊(現中区白島北町)で被爆した。1967年に韓国原爆被害者援護協会(現・韓国原爆被害者協会)設立に参加し、湖南支部長。1998年、韓国への帰国を理由に健康管理手当を打ち切ったのは不当として大阪地裁に提訴。2002年に高裁判決で勝訴が確定し、在外被爆者への手当支給が始まる契機となった。


韓国の原爆被害者を救援する市民の会 市場淳子会長(53)
歴史に向き合い謝罪と補償を

 韓国や米国、アメリカに住む在外被爆者が40年近い裁判闘争を続けた結果、旧厚生省通達が2003年に廃止された。これでようやく一部の在外被爆者が、日本の被爆者に近い援護を受けられるようになった。しかし、勝ち取られた援護が届かない被爆者も多く、文字通りの平等ではない。

 まず、前提となる被爆者健康手帳をいまだに取得できない被爆者がいる。2008年12月、韓国でも手帳申請が可能になり、日本政府は日本の被爆者と平等に認定作業をするとしている。しかし、日本語のできない在韓被爆者の場合、当時の記憶も土地勘も十分頭に入っていない。64年たった今では、証拠や証人探しも困難だ。

 日本政府のいう「平等」な審査を受けることすらできない被爆者のためには、これまでの不平等を埋める何らかの措置が必要だ。

 また、韓国や北朝鮮に帰った朝鮮人被爆者の多くが援護のないまま亡くなった。在朝被爆者は国交が無いことを理由に、いまだ何の援護も受けていない。

 裁判で援護を勝ち取ってきたことは評価すべきだ。しかし、日本政府はあくまでも人道的な援護だとし、植民地支配に対する謝罪と補償は実現していない。

 現在、2000人を超える在韓被爆者が原告となり、旧厚生省通達によって受けた精神的な苦痛について1人100万円の慰謝料を日本政府に求める集団訴訟を展開している。次は、既に亡くなった被爆者の遺族を原告とし同様の訴訟を準備していく。

 日本政府は、過去の植民地支配という歴史的経緯に向き合い、謝罪と補償を求める在韓被爆者の声に応えるべきだ。(談)

(2009年6月8日朝刊掲載)

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