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社説・コラム

被爆者・農村描いた作家・山代巴さん没後5年 文芸・平和に脈打つ遺志

■記者 二井理江

 被爆者の支援活動や農村女性の自立と人権の確立を支えてきた作家、山代巴さん(1912~2004年)が亡くなって7日でちょうど5年となる。出身の府中市や頻繁に足を運んだ三次市では今も、その遺志を継ぎ、市民が平和や文芸活動に力を注いでいる。

 三次市作木町や布野町が舞台になり、映画化もされた山代さんの小説「荷車の歌」。農村の人々の声に耳を傾けて生まれた代表作は、平和な社会を築くには人権を守り、女性が自己表現することが欠かせないという山代さんの終生かけた活動の原点となった。

 山代さんは1954年、広島市で翌年に開く第1回原水爆禁止世界大会に向け、100万人の署名を集める活動で広島県北を訪れた。作木町岡三渕には主人公のモデル、故日野イシさんが奉公していた庄屋屋敷「殿敷」が残る。

 三次市に拠点を置く山代巴文学研究所は山代さんの没後2年間、殿敷で「語る会」を開き、その後も毎年、文集を発行する。「『とにかく書こう』が山代思想の原点。苦労でも自慢でもいい。本になれば生涯の宝となる」と担当の黒田明憲さん(75)。書くことは自己の確立、人権尊重につながるとの山代さんの思想を実践する。

 山代さんは終戦間もない1945年11月、原爆で焼け野原となった広島を目の当たりにした。以来、被団協が未結成当時から被爆者の組織づくりに奔走。社会の弱者へ注ぐまなざしは、原爆小頭症患者の存在を世に問うた「この世界の片隅で」の編集や、小頭症患者と家族らの会「きのこ会」設立にもつながった。

 「3行でいいから」と山代さんに勧められて自身の人生をつづり始め、1977年に「一九四五年八月からの出発」を出版した府中市の内田千寿子さん(86)。被爆者を看護した体験を記した。今も周辺の人たちに執筆を呼び掛け、2冊の文集をほぼ毎月発行。自己表現の場を絶やさない。

 内田さんらと一緒に1983年、「山代巴を読む会」を始めた府中市の甲斐等さん(59)。1986年のチェルノブイリ原発事故を機に、被災者を支援する「ジュノーの会」を結成し、現地へたびたび出向いてきた。被災者一人一人と向き合うその支援の手法にも、山代イズムが貫かれている。

≪山代巴さん略年譜≫

1912年 6月 広島県栗生村(現府中市)に生まれる
1937年 3月 労働運動家の山代吉宗氏と結婚
1940年 5月 吉宗氏とともに逮捕され、治安維持法違反ほう助で懲役4年の判決
1945年 1月 吉宗氏が刑務所で死亡
       8月 刑期を2カ月残し仮釈放
      11月 連合国軍総司令部(GHQ)に呼び出され、原爆投下後の広島を見る
1949年 8月 被爆者の実態調査を開始
1952年 8月 川手健氏らと被爆者の組織づくりを進め「原爆被害者の会」結成
       9月 峠三吉氏らと編さんした詩集「原子雲の下より」出版
1956年 8月 小説「荷車の歌」出版
1959年 1月 広島県上下町(現府中市)で女性4人と勉強会「たんぽぽグループ」発足
1965年 6月 胎内被爆による原爆小頭症患者と家族らの会「きのこ会」設立
1973年12月 「連帯の探求」出版
1977年 4月 備後、備北の女性たちによる生活記録「叢書(そうしょ)・民話を生む人びと」の1冊
          目として、内田千寿子氏の「一九四五年八月からの出発」出版
1986年 8月 長編小説「囚われの女たち」全10巻が完結
2000年 4月 広島県三良坂町(現三次市)に山代巴記念室オープン
2004年11月 東京都内の病院で死去、92歳

<ゆかりの3人に聞く>

「個人と向き合う」実践

ジュノーの会代表 甲斐等さん(59)=府中市

 1986年4月のチェルノブイリ原発事故。救援に行きたいがどうしたらいいか分からない。まず、原爆投下直後の広島に医薬品を届けたスイス人のマルセル・ジュノー医師について学ぼうと1988年9月、山代さんらと勉強会を開いたのが支援活動の始まりだった。

 山代さんが広島で被爆者個人と向き合ったように、「全体でなく個人に支援が行くようにしたい」とチェルノブイリ被災者との「出会い」を求め続けた。そして、広島の医師による甲状腺診断のカルテを、現地の医師と患者双方に渡す方式を構築。これまでに千人以上の被害者を診てきた。「やっと一段落できるところまで来た」としみじみ思う。

 山代さんとの出会いは大学時代。著書「連帯の探求」で人と人とのつながりの探求に感銘し、自ら会いに行った。親子ほどの年齢差。山代さんが甲斐さん宅をしばしば訪れるなど、亡くなるまで付き合いは続いた。「けんかばかりしていたけど、筆一本で生きてきたすごいおばさんだったと思う」

 山代さんと親交の深かった竹原市出身の美学者、中井正一氏(1900~52年)の研究も進める。「山代さんが『甲斐君ならできるかもしれない』と言っていたと、人づてに聞いたんです」。託された宿題に取り組む。


激励を胸に文集続ける

「地下水」「おきゃがりこぼし」主宰 内田千寿子さん(86)=府中市

 ほぼ毎月発行する文集「地下水」は通算306号、「おきゃがりこぼし」は192号を数える。いずれもB5判で8ページ。10人前後のメンバーのうち毎回6、7人が投稿する。もちろん内田さん自身も書く。今のこと、若いころのこと。「人がどう思おうと、私が言わなきゃ」

 底に流れるのは入市被爆の体験だ。廃虚の中に焼け残った病院に駆り出され、被爆者を救護して終戦を迎えた。「死にたくない、なぜもっと早く戦争をやめなかった、って言われてね。亡くなった人の思いが私に乗り移っとる。原爆、戦争はいけんというんが、体に染み込んどるんよ」

 「地下水」を始めたのは1975年。「山代さんに『女の人が自分の言葉を持たないと、また戦争に巻き込まれる』と言われた。山代さんに追随できるよう、思想をはぐくみたかった」と当時を振り返る。

 100号を迎えた90年ごろ、ワープロ打ちする大量の原稿にうんざりし、もうやめようと思った。このときも「読まれることで自分が向上する」と山代さんに励まされた。新たな文集「おきゃがりこぼし」を始めたのが92年。以来、月に2本は文章を書き、メンバーの原稿をまとめる。「それぞれが書いたのを本にしていきたいんよね」


講演記録の編さんに力

山代巴文学研究所長 高場憲夫さん(62)=三次市

 「平和、人権、文化」をテーマにまちづくりを進めてきた広島県三良坂町は、三次市と合併前の2000年、山代さんから文書や資料の寄贈を受けて記念室を設け、2002年には文学研究所を設立した。

 研究所は現在、所報を年2回、文集「土と暮らしの文芸」を年1回それぞれ発行する。当初、90人近くいた会員が高齢化などで55人になり、「思うように活動できていない」と高場所長は憂う。

 とはいえ、「やらなければならないことは多い」。約3千点がある記念室の資料整理や展示替え、山代さんの著作に関連する行動記録や全国を巡回した講演記録をまとめる作業など、取りかかるべき目前の課題は尽きない。

 被爆者を集団としてでなく個人として向き合ってきた山代さん。その思想は「今の時代にも十分通用する」と強く思うからだ。

 集団に頼り、個々が自立できなくなっている現代社会が学ぶ点は多いのではないか。原爆小頭症患者と家族たちの会「きのこ会」の設立までを追い、その意味をあらためて考える営みから、被爆者と周囲の社会との新しい連帯のありようが見えるのではないか―。

 山代さんの思想を継ぐほかのグループとの連携も考えている。

(2009年11月2日朝刊掲載)

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