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社説・コラム

コラム 視点「没後5年、広島の作家山代巴さんの業績に光を」

■センター長 田城 明

 広島が生んだ作家山代巴さん(1912~2004年)を知る人は、今、日本にどれだけいるだろうか。海外となると、恐らくほとんど知られていないのではないか。

 だが、彼女が残した作品や原爆詩などを編んだ編者としての功績、「平和と女性の自立」を信念に、農山村の女性らに文芸活動を普及した業績はもっと知られていい。

 山代さんが原爆で廃虚となった広島を目の当たりにしたのは、原爆投下約3カ月後の1945年11月。労働運動家の夫とともに1940年5月に逮捕され、日本が降伏する1945年8月まで治安維持法違反ほう助罪で拘束された。その関係で彼女は、連合国軍総司令部(GHQ)が置かれた広島県府中町の東洋工業(現マツダ)に召喚された。実家のある同県栗生村(現府中市)から前夜に広島駅に降り立った彼女は、そのときに目撃した様子を克明に記している。

   「占領軍が、あなた達を罰した治安維持法を、世界で最も野蛮な人権無視の法律として撤廃させたことをどう思いますか」。日系2世の米軍将校に日本語でこう尋ねられた山代さんは、「感謝している」と答え、言論・出版・結社の自由や、男女平等の選挙権が保障されたことについても「大賛成で、そのために力をつくしたい」と返事した。

 ところが、「原爆の跡を見てどう思うか」との問いに、見聞してきたばかりの惨禍が脳裏に浮かび、「悲惨です」と答えた。すると「あなたのように平和と民主主義のために体罰を受けたような人が、そういうことをいうのは進駐軍の政策のさまたげになるから、今後は一切いわないように、もしいったら沖縄送りにする」と忠告された。「沖縄送りとは、米軍が沖縄基地を作るための強制労働に送るということである」と記述する。

 山代さんが体験したエピソードが示すように、当時、GHQは原爆の惨状が広く知れわたることに神経をとがらせた。

   彼女はその後、郷里や広島市を拠点に詩人の峠三吉氏(1917~1953年)や学生だった川手健氏(1931年~1960年)ら青年たちとともに、文芸活動や被爆者支援活動にかかわり、1952年8月に「原爆被害者の会」を結成。翌月には青木書店から詩集「原子雲の下より」を発刊した。

   仲間の学生らが広島市内の小中高校や市民から集めた作品は1300点を超えた。うち約120点が収録されている。

  目の見えなくなった母親が
  死んでいる子供をだいて
  見えない目に
  一ぱい涙をためて泣いていた
  おさないころ
  母に手をひかれてみたこの光景が
  あの時のおそろしさとともに
  頭からはなれない

 「やけあとで」と題された小学6年の少女の詩である。7年前に遭遇した被爆体験を素直に表した子どもたちの作品には、大人とはまた違った訴求力がある。広島大学長だった長田新氏(1887~1961年)が編集責任者となり、前年に出版された子どもたちの被爆証言集「原爆の子」が、既に英語やエスペラント語など10カ国語以上に翻訳され、広く読まれているのに比して、英語にすら翻訳されていないのは惜しまれる。

 原水爆禁止運動が政治に翻弄(ほんろう)されるなか、山代さんらは被爆者一人一人の苦しみに焦点を当てて支援活動を続けた。こうした地道な営みが、最も弱い立場にあり、社会の片隅でひっそりと生きてきた原爆小頭症患者と家族の存在に光を当て、やがて国の援護を獲得していった。

 彼女のこうした取り組みが今、草の根平和市民団体「ジュノーの会」のように、新たなヒバクシャであるチェルノブイリ原発事故による被災者の救援にもつながっているのだ。

 「1人の100冊よりも100人の1冊を」「サークル活動を通じて、人と人とが支え合って生きることが大切」。こんな言葉を好んだという山代さんの精神を受け継ぐ人々は、地域に密着して生きた広島県内では決して少なくない。だが、それ以上の広がりとなると極めて限られているのが実情だ。

   山代さんが亡くなって5年。作品集を含め、あらためて彼女が残した「ヒロシマ人(びと)」としての業績に光を当て、内外に広めたいものである。

   (2009年11月2日朝刊掲載)

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