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社説・コラム

「原爆の子」広がる翻訳 被爆手記集 13言語に

■記者 馬上稔子

 被爆を体験した広島の子どもたちの手記集「原爆の子」が世界に広がっている。初版発行から60年近く。これまでに11言語に翻訳され、さらに今年もインドネシア語とロシア語で新たに出版された。今なお国内外で読み継がれる本への思いを、手記の執筆者や発行世話人に聞いた。

 「原爆の子」は広島大名誉教授でペスタロッチ研究で知られた教育学者の長田新(おさだ・あらた)氏(1887~1961年)が教え子とともに編集し、1951年に岩波書店から発行した。翌1952年、エスペラント語に初めて翻訳され、続いて英、ノルウェー、デンマーク、ドイツなど欧米諸国の言語で広がった。

 長田氏の死去後も続く。1989年には、教え子で元広島大学長の沖原豊氏(2004年に死去)が中心となって中国語版の発行にこぎつけた。韓国語やベトナム語にもなった。

 今回のインドネシア語版は11編、ロシア語版は44編の手記を収録した。いずれも長田氏の四男で、初版の発行からかかわる横浜市立大名誉教授の五郎さん(82)=経済学専攻、東京都世田谷区=が卒業生や知人らを介して出版に尽力した。

 世界各地で読み継がれる理由は―。手記を寄せた一人、「原爆の子きょう竹会」代表の早志(旧姓山村)百合子さん(73)=広島市安佐南区=は中学3年のとき、9歳で体験した惨状をこうつづっている。

 「前の道を、たんかにのせられた血だるまの人が通りました(中略)頭の先から足の先まで、ほとんど一点も白い所なしに眞赤でした」「たくさんの死人がごろごろしていたので、どうしても見ないわけにはゆきませんでした(中略)そのたびに私は、なみだが出てしかたがありませんでした」

 「思い出すのは本当につらかった」と当時を振り返る早志さんは今、「自分の体験に目を背けず向き合うことができた」と感じている。「海外に広がり続けるのはすばらしい。一発の原子爆弾がもたらす悲惨さを知り、自分の子どもや子孫がこんな体験をすることを想像してほしい」

 手記を寄せた子どもや支援者は1952年、「原爆の子友の会」を結成した。演劇活動や被爆証言を通じ、体験継承も担った。「同じ傷を持った者同士。分かり合えたし、安らぎになった」と早志さん。「原爆の子」たちには、そんな後日談もある。


父の魂受け継ぐ

外国語版に尽力 長田五郎さん

 ―被爆時の様子は。
 当時東京商科大(現一橋大)予科に通っていた。兵役を課される前に父に会っておこうと8月3日、広島に戻った。6日、平野町(現中区)の自宅で被爆。縁側にいた父を家屋の下から引きずり出した。ガラス片が全身に刺さり、50カ所以上にけがをした父を連れ、逃げた。死んでも不思議ではない父を助けることができたのは、奇跡に近かった。最大の親孝行ができたと思う。父はその後、原爆症に苦しみながらも本を出すなど平和活動に尽力できた。

 ―「原爆の子」の編集や出版にどうかかわったのですか。
 文章の編集は父と兄が中心になり、学生らが担当した。私は初版本の写真を手配した。

 父は発行の際、GHQの反発を招くような本を出して広島大の教授を辞めさせられるのではないかと心配していたようだ。幸いに何もなかった。大人ではなく子どもの手記だからかもしれない。

 ―今後の活動は。
 多くの人に本をもっと読んでほしい。私の教え子たちで、さらにほかの言語に翻訳する計画もある。平和教育などで使われる機会が減っている。しかし、忘れ去られてはいけない。

 多くの平和活動家がこの本を精神的支柱として運動してきた。手記を書いた子や読者の中にも、この本がきっかけで平和活動にかかわり続けている人も少なくない。

 父は手紙にいつも「おれは戦争と戦っている」と書いていた。そういう強い情熱を、多くの人に持ち続けてほしい。


母と弟 一瞬で亡くした

手記を寄せた田辺雅章(本名俊彦)さん(71)=広島市西区

  ―手記を寄せた経緯を覚えていますか。
 国語の授業で先生がクラス全員に呼び掛け、宿題だと思って書いた。普段はわら半紙しか使っていなかったのに、その時はきれいな原稿用紙。あらたまってきちんと書かなければと感じた。

  ―「原爆の子友の会」で副会長を務めた理由は。
 やはり寂しさがあったから。一発の原爆で広島県産業奨励館(現原爆ドーム)隣の自宅にいた母と弟は一瞬で亡くなった。近くの防空壕(ごう)にいた父も重傷を負い、10日後に亡くなった。

 同じ体験者の集まりだった会の活動に熱中した。講演会や演劇に東京や大阪まで出かけた。勉学をおろそかにするほど充実感があった。映画「ひろしま」にも出演した。それが映像に興味を持ち、映像作家になったきっかけとなった。

 しかし、子どもの純粋な活動が大人の誘導で次第に政治色を帯びるようになった。活動を理由に高校への推薦を受けられず、原爆のせいで、まだこんなひどい目に遭うのかと思い知らされた。広島と決別する思いで母の実家があった山口の高校へ進み、60歳近くになるまで平和運動にはかかわらなかった。

  ―「原爆の子」の今後に何を望みますか。
 私たちの声が世界中に広がるのはすばらしい。原爆文献でこれほど優れた記録文学はないと思う。本に未掲載も含め、手記の原本が見つかれば一つの文化財になる。なんとしても探し出してほしい。

 本の印税で被爆者を支える基金をつくってもいいのではないか。原爆で孤児となり、今なお困窮している人はいる。支援することで、長田新氏が「原爆の子」をつくった原点に戻れるのではないか。


1951年に初版 映画化も

 「原爆の子 廣島の少年少女のうったえ」はB6判、306ページ。小学4年生から大学生まで1175人が書いた被爆手記のうち105編を収録している。

 「おばあさんは、リュックサックの中から、おこつを出して、みんなにみせた。それは、お母ちゃんの金歯と、ひじの骨だけだった。それでも、私は何のことかわからなかった」(小学6年、被爆当時6歳)

 40ページにわたる序文には、そのほか84人の手記の一部も含まれる。その序文で長田新氏は子どもたちの手記を「血と涙との結晶であり、最愛の肉親を奪った戦争に対する激しい憤怒であり、悲痛な平和への祈りであり、訴えである」と位置付けている。

 初版が出た1951年はまだ、連合国軍総司令部(GHQ)によるプレスコード下にあった。素朴で迫真に満ちた手記は国内でも読み継がれ、日本語版は現在、50刷を超えた。文庫版も発行された。

 1952年に「原爆の子」(新藤兼人監督)として、その翌年には「ひろしま」(関川秀雄監督)として映画化もされた。現在、手記の原本は行方不明となっている。

(2009年11月16日朝刊掲載)

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