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社説・コラム

被爆体験が信仰の原点 日本キリスト教団・四竃牧師が講演

■記者 串信考

 広島市出身で、日本キリスト教団東京教区の四竃揚(しかま・よう)牧師(77)=東京都世田谷区=は、旧制中学時代の被爆体験が信仰の原点だという。同学年の友人との、紙一重のような生死の分かれ目。弟たちを気遣う手紙を残して16歳で死んだ姉。同市内であった講演会で「あの惨状の一端でも伝えることが、クリスチャンとしての自分の責任」と語った。

 講演会は、東区山根町の広島東部教会が設立100年を記念して開催。四竃牧師は「平和と生命の尊さ―被爆体験を貫いて」と題して話した。

 修道中2年だった1945年8月6日、市役所の周囲に防火帯を造るため、家屋撤去後の片付け作業に動員されていた。同学年の「小方君」が、「学校に残っている生徒を引率して来るように」という教師の言い付けを伝えてきた。「暑い中、損な役だと思ったが、この伝令に行ったことが生死の分かれ目だった」

 南千田町(中区)の学校に行くと教室に7、8人。廊下から「小早川君」が入って来たとき、「ものすごい光、その途端にがあーとつぶされて、一瞬気が遠くなった」。木造校舎の瓦や壁土の間から少しずつ身動きして外に出たら薄暗く、火災が起きていたという。倒壊校舎から出てきた級友と点呼を取った。「校舎から何かを取り出そうとしたら小早川君の頭だった」

 四竃牧師たちは机に座っていたが、立ったままだった小早川君は即死。「彼との距離は2メートルぐらいだった」

 父は、国泰寺町(中区)にあった日本キリスト教団広島教会(現・同大手町)の牧師。焼け跡の石壁に母が「吉島に行く」と炭で書いていたのを手掛かりに、父母と再会。広島女学院高等女学校(当時)4年の姉が行方不明だったが、被爆から5日後、矢賀町(東区)の友人宅に収容されていたことが分かった。

 一家は小学生の弟2人が疎開していた広島県双三郡和田村(三次市)に身を寄せた。しかし、姉は8月末から高熱が続き、1945年9月4日、父の腕に抱かれて息を引き取った。

 被爆時、建物撤去後の片付けなどで各学校の生徒たちが多数動員され、多くが死亡した。「伝令は小方君でも誰でもよかったはずだ。私が生き残ったことは亡くなった同期生が身代わりになったためではないか」。広島大理学部を卒業するころ、その問いに悩んだ。

 「自分の後ろには多くの死者がいる。その人たちの生涯を背負って生きるには神様につながる仕事をするしかない」。卒業後、東京神学大に編入学した。

 49年間、東京都内の教会で主任牧師として働いた。2004年、長野県で牧師をしていた次弟が70歳で亡くなったのを機に、一家の被爆体験を本にすることを思い立った。

 資料を集めようと、父の遺品の箱を開けたとき、姉のはがきが見つかった。父母と再会する前、収容されていた友人宅から弟たちの疎開先にあてていた。差出人の姉の名前のそばに「八月七日」。お父さんやお母さん、揚ちゃんのことは分からないけど、自分が必ず迎えに行くから―。

 四竃牧師は「姉は重傷だったが、親代わりになろうとしたのだろう」と話す。はがきは今年8月、中区の原爆資料館に寄贈した。

 「今の社会、テレビゲームの影響か、気に入らない人を消してしまおうという考えが広がっている」。他者へのそんな認識が国と国との対立になり、兵器として行き着いた先が核兵器。「私たちは生きていることの感謝と課題の重みを強く意識し、今できるアクションをもっと起こすことが必要だ」

(2009年11月23日朝刊掲載)

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