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社説・コラム

ゆだ苑 上野さんの証言で振り返る

■記者 馬上稔子

 山口県内の被爆者が心のよりどころとする県原爆被爆者支援センター「ゆだ苑」(山口市元町)。その設立時から40年余り勤めた上野さえ子さん(61)が昨年秋、事務長の職を退いた。被爆者への温泉提供から出発し、死没者慰霊、体験継承など草の根パワーを結集して被爆者を支えたゆだ苑の歩みを、上野さんの証言で振り返る。

被爆者癒やし40年 体験聞いて痛み共有

誕生

 ゆだ苑は山口県内の被爆者や学者たちが中心となり、後障害に苦しむ被爆者が温泉につかって心身を癒やし、宿泊もできる保養施設として湯田温泉地区の一角に建設した。1968年5月に開館。1995年に施設の老朽化や財政難のため保養業務をやめるまでの利用者は約43万6千人にのぼる。

 「いやあ、人数を聞くとあらためて身が引き締まる思いよね。もちろん全員とお話できたわけでもないけど。ただこの間、私は休まんかった。正月を実家で過ごしたこともなかった。まる1日の休みは、42年間なかったいね」

 ゆだ苑が着工した1967年に高校を卒業した上野さんは、山口県原爆被爆者福祉会館建設委員会に入った。ゆだ苑設立の趣旨に賛同して建設地を提供した祖母の薦めだった。事務所は建設現場の2階建てプレハブの1階。机二つと電話1本からスタートした。

 「身内に被爆者はおらんかった。で、何をするんか思うてね。とりあえず簿記とタイプライターをやりよったんやけど、車の免許をとれいうて言われて。山口県内の巡回検診とか相談業務とか、後で役にたったいね。

 建設は始まっても、お金はまだ集まっとらんかった。神社やら自治体やら回って募金をお願いするのが一番大変やった。車で各地を回って街頭に立ち、夜は映画会なんかも開いてね」

 建設費約4300万円の大半を寄付金で賄って完成した。3階建て。個室12部屋、広間や相談室、大小の浴場を備えた。年間利用者はピークの1972年、2万5266人に達した。1日平均で約70人。

 「私らスタッフは素人ばっかり。旅館業ってなんか知らんまま、てんてこ舞いよ。当時の永松初馬専務理事(1991年に死去)も浴室の掃除やらしよっちゃった。私も料理の盛りつけや配膳(はいぜん)もして、何でも屋よねえ。朝早うから夜遅うまで。家に帰る余裕もなかったけえ、ふとんを収める倉庫で寝泊まりしよった。

 客室じゃあ足りず、広間や廊下にもお客さんのふとんをひいた記憶があるよ。それでも喜んでくれちゃった。

 相談も机に向かい合ってじゃなくて、お客さんがお風呂上がりやごはんを食べ終わった後、ロビーで一緒に、よもやま話をしてね。人生とか被爆体験を聞いたよ。本当の相談っちゅう感じじゃった」

原動力

 上野さんにとって被爆者援護の「原点の地」はもう一つある。1973年、被爆軍人の遺骨が見つかった山口市宮野江良地区だ。原爆投下直後、山口陸軍病院で治療を受けたものの亡くなった軍人たちの遺骨を埋葬したとの証言をもとに、ボランティアたちと発掘に当たった。現地に今、真っ白な慰霊碑があり、山口県被団協などとともに毎年9月6日を「山口のヒロシマデー」として原爆死没者の慰霊を続けている。

 「手袋をはめ、手で掘ったんよ。山口大工学部の学生さんたちと一緒にね。そしたら形が崩れたような骨片がどんどん出てきて。原爆のせいでこんなになるんじゃと、恐ろしさを実感したんよ。

 その後も被爆者の話を聞きゃあ聞くほど、のめり込んでいったんよ。痛みを共有したっちゅうか。ほかの人の問題ではなく、それぞれ一人一人が考えんといけん問題なんじゃと思うんよ」

 1980年から90年にかけ、ゆだ苑は被爆証言集「語り―山口のヒロシマ」を第7集まで出版し、計44人の証言や手記を収録した。上野さんも被爆者を訪ね、聞き取りを重ねた。

 「嫌がる人もおってねえ。ゆだ苑の職員じゃったけえ話してくれたんよ。1人の話を聞くのに最低5、6回は通い、その後もお付き合いは続けたよ。証言集のためだけに聞きたいわけじゃないし。

 新聞記者の人にも『家に入ったら、まずはその人のたたずまいを見んさい。どんな生活をしとるかを感じんさい』って教わってね。その人の半生を残そうと思った。

 ある初老の男性が忘れられんのよ。結婚せず、体も弱り、ずっと寝たきり。お姉さんに世話をしてもらっちょった。訪ねて行くと、いつも寝間着姿よ。ある時、『向かいの山の木は育つのに、わしはこんな姿のまま』と涙を流しちゃった。原爆が落とされた日から、その人の時間は止まったままなんよね。

 私も数年前、大病をしたんよ。病魔と闘いながら前向きに生きる被爆者を見ちょったけど、自分がそういう状況になると、被爆者の不安とか気持ちとかがもっと分かるねえ」

あす

 ゆだ苑は1995年に保養業務をやめ、土地を売却した。現在、そこに建てられたビル1階に事務所を置き、被爆者相談業務などを続けている。スタッフは専務理事を含め3人。うち2人は開館直後からゆだ苑でともに働いた仲間だ。

 「本当に、あっという間の40年。走馬灯のように浮かぶねえ。被爆者は戦時中も戦後も、本当に大変じゃった。でも病気をかかえながらも一生懸命生きてね。

 保養業務はなくなったけど、山口県内の温泉施設3カ所と提携して利用料金を県が助成するようになった。湯田温泉まで来るのもしんどい被爆者の人もいるやろうし、近くの温泉に行けるのもいいことと私は前向きに考えちょるよ。

 ゆだ苑の保養業務は山口大生のボランティアの力も大きかった。工学部のある宇部市からげたで歩いて来て手伝う学生もいたよね。

 私が頑張れたのは、永松さんや前理事長の安部一成先生ら、周囲の熱意に触発されたこともあったね。ゆだ苑ができたこと自体、被爆者を支えたいというみんなの強い思いがあったけえよね。

 永松さん自身も被爆し、病を抱えちょったのに身を粉にしてね。毎週のように注射を打ちながら活動しとっちゃった。『生き残った』との負い目みたいな気持ちと、見たものにしか分からん、あんな非人道的な兵器を世界から一日も早くなくさんといけんちゅう強い使命感があったね。私はみんなに一生懸命ついていったんよ。

 今、米国のオバマ大統領が出て、核兵器廃絶の機運が盛り上がって、ええことやと思う。ゆだ苑をつくったころの熱気と合わさると、本当に核兵器はなくせると思う。そして被爆者援護は永遠のテーマ。『原点の地』に久しぶりに立つと、何か気持ちがこう、ぐーっと戻された気がしたね」


≪ゆだ苑の歩み≫

提供・集団検診・慰霊…

1965年 8月 原爆被爆者福祉会館建設へ発起人会が発足。翌月、募金活動始まる
1967年 3月 建設工事開始
1968年 5月 開館。「ゆだ苑」と命名
1970年 5月 被爆者集団検診スタート
1973年 7月 山口市内で被爆者の遺骨を発見
       9月 ボランティアとともに発掘作業
1974年 9月 遺骨発見場所に原爆死没者の碑を建設。遺骨と県内原爆死没者名簿を納める
1975年 9月 「山口のヒロシマデー」として初の式典を開く
1976年 2月 被爆者絵画展を主催
1977年11月 県などの協力を得て被爆者の休日移動検診スタート
1980年 1月 被爆証言集「語り―山口のヒロシマ」第1集発行
1990年 7月 被爆体験や戦後の暮らしを手記などで残す「一筆運動」を始める
1995年 3月 山口県被団協とともに県内の被爆者約6500人に健康と暮らしについてアンケート
       5月 宿泊、保養業務を廃止
       6月 ゆだ苑の解体が始まる
1996年 1月 県自治労会館内に構えた新事務所で業務開始

(2010年1月18日朝刊掲載)

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