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社説・コラム

コラム 視点「被爆者支援センター『ゆだ苑』の核兵器廃絶・平和への取り組みを次世代へ」

■センター長 田城 明

 広島、長崎両県に次いで人口当たり3番目に被爆者の多い山口県。1968年に開館した原爆被爆者支援センターの「ゆだ苑」は、今も4千人を超す県内被爆者の心のよりどころであると同時に、核兵器廃絶・不戦の精神を継承する「要」の役割も果たしてきた。

 1975年以来、ゆだ苑が中心となり、地元の被爆者団体や平和団体と協力して開いてきた原爆死没者追悼・平和式典。毎年、9月6日にある「山口のヒロシマデー」と呼ばれるその式典で、被爆地の広島や長崎両市とは別に、もう一つの「平和宣言」が発せられていることを知る人は少ない。

 悲惨な原爆体験に根ざした宣言文には、常に人類の未来を見据えた警告が込められてきた。

 「今日世界をおおう環境の破壊、人口増加と食糧危機、枯渇への速度をはやめる資源消耗の現実を直視するとき、ここにも平和を脅かす要因が潜在していることを憂えるものであります」

 米ソ冷戦が激しかった1976年、2回目の平和宣言の一節には、核戦争による人類の滅亡と文明の終焉(しゅうえん)をアピールするだけでなく、私たちが現在直面する地球規模の環境破壊の問題などにも言及していたのだ。宣言はこう続く。

 「今や人類は、滅亡か生存かの岐路に立っています。もはや国と国、民族と民族が相争うときではなく、世界が一体となって核兵器を廃絶しなければならないときであります。今こそ全人類は、運命共同体の一員であることを自覚し、人間の尊厳と、相互依存の理念にもとづく世界恒久平和への道をいそがなければなりません」

 30年以上前の警告がより現実味をもって迫ってくる現在。山口の被爆者らの訴えを、「理想主義にすぎない」とうっちゃっておくことなど、もうだれにもできないだろう。被爆を体験した日本人ならなおさらのことである。

 被爆者支援のかたわら証言を記録し、核実験があれば無言の抗議の座り込みに加わり、原爆被害の実態と核廃絶を訴えるために国内外の平和行脚にも加わったゆだ苑の多くの関係者。40年余にわたり被爆者の世話を続け、昨年事務長を退いた上野さえ子さん(61)も1982年には、日本被団協の一員として核保有国のフランスをはじめ、東西ドイツなど5カ国を約2週間かけて回ったという。

 「多くの市民は平和への思いをどこかにぶつけたい、との思いを抱いている。この思いを世界の潮流とするには、国家の垣根を超えた自治体や市民レベルの草の根運動がかぎを握る」。上野さんはそのときの体験を振り返り、のちに中国新聞にこう寄せた。

 「核兵器なき世界を目指す」と誓ったオバマ米大統領の誕生など、昨年は核廃絶に向けて明るい兆しは見えた。だが、各国の非核政策を支える市民レベルの動きは、なお大きな潮流とはなっていない。被爆体験の記憶が薄れる日本でも状況は同じである。

 こうした風化に抗するように、昨年の山口の式典では、1974年に建立された「原爆死没者之碑」のそばに新たに「非核三原則の貫徹と核兵器廃絶を誓う碑」が除幕された。御影石に刻まれた碑文には、ゆだ苑の歴史とともに歩み、建設に尽力した人々の核兵器廃絶に向けた強い意志と継承への願いがこもる。

 被爆者が温泉につかり心身をいやす保養施設は姿を変え、被爆者を支えたスタッフや周囲の人々も年を重ねた。だが、ゆだ苑の活動を通じてはぐくまれた核廃絶・平和を希求する精神は、多くの人々によって受け継がれなければならない。

(2010年1月18日朝刊掲載)

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