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社説・コラム

コラム 視点「被爆体験の記憶継承に貴重な原爆手記の活用を」

■センター長 田城 明

 「被爆者にとって体験手記は遺言書。戦争や核兵器のない世界の実現を願う未来への伝言として、若い人たちに読んでもらいたい」

 ある被爆者は、地域の被爆者の手記をまとめた本を手に、私にこう話した。出版に尽力し、修学旅行生ら子どもたちへの証言活動にも熱心に取り組んできた。あれから3年。79歳になった元教師の彼は、がんが転移し闘病中の身。これまでのような平和活動もままならない。「遺言書」の言葉の意味が一層重く迫る。

 原爆が投下された1945年8月6日や9日前後の様子を中心に、被爆者が自らの体験を手記に残し始めた時期は早い。連合国軍総司令部(GHQ)によるプレスコード(検閲)にもかかわらず、原爆投下の翌年には「中国文化」創刊号などに収録されている。

 原爆手記について研究調査した広島女学院大学の宇吹暁(うぶき・さとる)教授によれば、被爆50周年の1995年末までに出された関連図書・雑誌の総数は、確認できただけで3677冊、収録手記は3万8955編にのぼるという。被爆者団体や平和・社会団体、学校、自治体、企業、個人など発行主体はさまざま。その後も、多くの原爆手記が書かれている。

 その数を知れば圧倒される。だが、被爆体験とその後の人生は、被爆者の数だけ存在する。そう考えれば、必ずしも多いとはいえないのかもしれない。

 思い出すのもいや。胸がかきむしられるよう…。何年たっても被爆者の意識の底にうずく心の痛み。60年以上の歳月が流れて、その痛みと向き合い、ようやく筆を執る人たちもいる。そうさせる一番の動機は、「同じ苦しみをほかの誰にも味わってほしくない」との思いである。

 被爆者の平均年齢は75歳を超えた。あと10年もすれば、自身の被爆体験を語れる人たちはほとんどいなくなる。この現実を直視するとき、貴重な原爆手記をどう生かすかが非被爆者である私たちに問われているといえよう。

 参考までに手記を活用した幾つかの事例を挙げてみよう。

  例えば、1995年11月、原爆使用の違法性を問うため、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)の法廷に立った平岡敬前広島市長。平岡さんは、証言の中でかつて新聞社で同僚だった被爆女性の手記を読み上げた。爆心地から1.7キロで熱線を浴びた彼女の顔や両手にはケロイドが残り、被爆翌月には夫の命も奪われた。1950年に書かれた同僚の無念の思いがこもるその手記は、居並ぶ14人の裁判官の心を揺さぶった。

  国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、修学旅行生や外国人訪問者らに原爆手記を読む朗読ボランティアの取り組みが5年前から行われている。生徒の年齢などに合わせて複数の手記を選び、生徒たちにも読んでもらう。

 フリーの現役アナウンサーらその輪は約60人。今では、広島県内の学校などへ「出前朗読」にも出かけている。手記を基にした朗読劇の創作も手掛る。ほとんどのボランティアは戦後生まれ。直接の被爆体験はなくても、手記を通じて原爆のむごさや平和、命の尊さは十分に伝えうると手応えを感じている。

  地域のおじいちゃん、おばあちゃんが、あるいは自分が通う学校の先輩や先生が書き残した原爆手記が、身近に眠っていないか。それらを見直して活用することも大切だろう。何よりもこうした手記を教科書に取り入れるなど学校教育にしっかりと位置づけ、原爆・戦争体験の記憶を次世代に伝えていく責任が私たち大人にはある。

(2010年2月9日朝刊掲載)

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