×

社説・コラム

コラム 視点「原爆供養塔と被爆者動態調査」

■センター長 田城 明

   底冷えのする金曜の午後。平和記念公園の北西に位置する原爆供養塔は、冬枯れの芝生に覆われ、辺りはひっそりとしていた。

 桃山時代の御陵を模して造られたという直径10メートル、高さ3.5メートルの円形の盛り土の頂には、石造りの相輪1基が据えられている。内部には原爆で犠牲になった身元不詳の約7万人の遺骨と、名前が分かりながら引き取り手のない820人の遺骨が納められている。

 誰が手向けたのだろうか、供養塔前の金属製の大きな花器には、多くの犠牲者の霊を慰めるように、キクやユリ、カーネーションなど色とりどりの新しい花が供えられていた。

 爆心地近くで一家全滅の家族、川面から死体を引き揚げられ荼毘(だび)に付された人々、広島市周辺の村々や島しょ部に傷ついて避難したものの数日の内に死亡し、混乱の中で名前も確認されないまま、後に遺骨だけがここに納められた犠牲者、強制労働などで広島にいて被爆死した朝鮮人…。

 原爆供養塔は、原爆資料館・原爆慰霊碑・原爆ドームと南北に一直線に平和記念公園を貫く中心線から外れている。だが、この供養塔こそ「ヒロシマを象徴する隠れた『原爆遺跡』」と話す被爆者もいる。家族や友人らにみとられることもなく、原爆の熱線や爆風、放射線に無慈悲に奪われた命。供養塔には、無念の思いを語ることもできなかった幾万の被爆者の声なき声が凝縮されているのだ。

 いまだに肉親の遺骨が見つからない遺族の中には、見つからないままに「原爆死」として役所に届け出を済ませ、広島市が取り組む原爆被爆者動態調査に名前が加えられているケースもあるだろう。供養塔に納められた身元不詳の遺骨には、そうした遺骨も含まれているに違いない。だが、恐らくその数は決して多くはないだろう。

 一つの例を挙げよう。私の同僚記者は1997年に原爆ドームのある街、旧猿楽町の被爆実態を掘り起こす取材を手掛けた。疎開していたり、学徒動員などでたまたま爆心地から離れていたりして助かった遺族らを丹念に探し出しながら、1945年末までに死亡した91人の被爆死状況を突き止めた。

 ところが、広島市の1946年の「被害状況調査」には、猿楽町の被爆前世帯数は260世帯、1055人と記されている。疎開などで被爆時の居住者はこれより少ないとしても、被爆50周年の1995年に市がまとめた動態調査では、1945年末までの確認死者数は100世帯、240人にすぎない。

 「地域全体を根こそぎ破壊した原爆の威力をまざまざと示すように、猿楽町ゆかりの人たちが一体どれだけ、どこで、どのように亡くなったのか。今も未解明の部分は多い。それは、この街だけにとどまらない」。猿楽町を手始めに、その後3年にわたって爆心地とその周辺の被害実態を掘り下げた記者は、こう記述する。

 広島市が1976年に国連へ提出した1945年末までの原爆による死者数は14万人プラス・マイナス1万人である。1979年から始めた原爆死没者一人一人の名前を確認する被爆者動態調査で確認できたのは、2009年3月末までに8万9031人。死者の数だけに限っても、原爆被害の全体像を正確につかむのがいかに困難な作業であるかが、爆心地の状況や氏名不詳の遺骨の多い原爆供養塔の存在からも理解できよう。

 「1人の命の尊厳のためにも、そしてヒロシマ・ナガサキの惨禍を再び繰り返さないためにも原爆被害の実態を明らかにしなければならない」。そんな思いに支えられて、被爆から65年を経た今も、広島市や長崎市は、原爆死者たちの確認作業を続ける。だが、時がたてばたつほど、その作業は困難を伴う。

 原爆供養塔に安置された膨大な数の遺骨。それらが誰の遺骨であるかは、受け入れ難いことではあるが、恐らく永遠に不明のままであろう。いみじくも被爆者が、供養塔をさして「原爆遺跡」と呼んだように、供養塔は核兵器がもたらす巨大な破壊と悲惨さを示す象徴である。それはまた、核戦争が次に起きれば、遺骨を収集する者すらいなくなることを暗示している。

(2010年2月22日朝刊掲載)

関連記事
1945年末までの原爆死没者数 解明進むか ヒロシマの空白(10年2月27日)


この記事へのコメントを送信するには、下記をクリックして下さい。いただいたコメントをサイト管理者が適宜、掲載致します。コメントは、中国新聞紙上に掲載させていただくこともあります。


年別アーカイブ