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社説・コラム

1000人超す被爆者取材 故伊藤明彦さん

■記者 村島健輔

 私費を投じて千人以上の被爆者の肉声を収録し、昨年3月に72歳で死去した元長崎放送記者、伊藤明彦さんの業績が再評価されている。カセットテープやCDに収められた被爆証言は、伊藤さんの思想や活動に共鳴する次世代の人たちの手でホームページ(HP)にアップされ、英訳とともに世界へ発信。英語による証言動画の公開も始まった。伊藤さんの足跡と、それを受け継ぐ取り組みを紹介する。

残した肉声

 伊藤さんは長崎放送入社翌年の1961年、ある女性を取材した。明治時代初めにあった隠れキリシタン弾圧事件の最後の生存者だ。「最後の被爆者が地上を去る日がいつかは来る。その日のために肉声を残す必要がある」。著書「原子野の『ヨブ記』」で当時をこう振り返っている。

 1968年、社内でラジオ新番組「被爆を語る」を提案し、初代の担当に。しかし自著「夏のことば」によると、労働組合運動に関与した関係で、約半年後には担当から外れた。自らのブログで後日、「マラソンのつもりで準備運動も十分して、200メートルくらい走ったところで『君はもう走らなくてもよい』と言われたような喪失感」と当時の心境をつづった。

 1970年に退社、1971年から独力で被爆証言の収録を始めた。重さ13キロの録音機を抱え、青森から沖縄まで21都府県を8年かけて回った。

 徹底して被爆者の肉声を、そのまま伝えることにこだわった。自著「未来からの遺言」にもこう記す。「肉声を無編集で次の時代の人々に手渡したい…。解釈や編集はその時代の人々にまかせればよい」

 漫画家中沢啓治さん(71)=埼玉県所沢市=はそんな伊藤さんに被爆体験を語ったことがある。35年ほど前だった。「被爆者の声を可能な限り集めたい。その強い意欲がこちらに伝わってきた」。大きな録音機を抱えた姿を鮮明に覚えている。

 こうして伊藤さんは千人を超える証言を集める一方、ほぼ同数の被爆者には断られたという。「癒えかけ、やっと薄皮が張ってきた傷口に手をさしこまれ、かきまわされるような苦痛だ」と言われたこともあった。

 収録した証言は順次編集し、51人分のオープンリール版(制作1982~85年)▽14人分のカセット版(1989年)▽284人分のCD版(2006年)―として自主発行した。全国の図書館や平和団体へも寄贈した。

 情報技術の発達が伊藤さんを支える。2006年5月、CD版の寄贈を受けたコピーライターの古川義久さん(55)=埼玉県所沢市=が、証言を世界に発信するHP「被爆者の声」を作った。伊藤さんは驚いたという。「発信手段を得たことで、伊藤さんの意欲に再び火がついた」と古川さん。

 半年後の2006年11月、録音機をビデオに持ち替え、広島、東京、長崎で収録を再開した。

 「この作業、たまたま『先発』で40年前に始めました。『完投』になるのかどうか判りませんが、語ってくださる被爆者がいる限り、今しばらく試みます」。このころ伊藤さんは、古川さんにこんなメールを送った。

 伊藤さんは自身の経験から「5歳での被爆者が92歳になるまで、すなわち32年までは、被爆者が自身の体験を肉声で語ることができる」と説いていた。だが、被爆60年を過ぎ、証言に生々しさが薄らいできたと感じるようになったという。2009年1月、はかどらない収録作業を中断し、長崎からいったん帰京。その2カ月後、72歳の生涯を閉じた。

 「無名の庶民のなかにこそ本当に尊敬できる魂が宿る」が伊藤さんの持論だった。インターネットは自由闊達(かったつ)に意見を交わす民主主義の象徴の一つと見立てていた。そんな被爆者の魂をHPに載せ、中国語やフランス語など核保有国の言葉にも翻訳して世界中で共有していく―。その行方は見届けないままとなった。

受け継ぐ魂

 伊藤明彦さんが集めた被爆証言を公開するHP「被爆者の声」を準備した古川義久さんは、「迫力に圧倒された」という。長崎市出身で被爆2世の古川さんは子どものころから被爆体験を耳にしていた。しかし伊藤さんが手掛けたCDを初めて聞いたとき、被爆者の肉声が発する臨場感は段違いだった。

 古川さんは、HPでより効果的に伝える工夫を凝らした。音声だけでなく、文字も画面上に表示する―。文字起こしは中学高校の同窓生が協力してくれた。そうして2006年5月ごろからHPで順次、公開を始めた。

 HPへのアクセスの多い時間帯を調べ、学校での活用が多いと分析した。漢字にルビを打ち、難しい言葉は説明文を加えた。

 2009年8月にカセット版を掲載した際は、伊藤さんが会長を務めた「被爆者の声を世界に伝える会」のメンバーでカタログ制作の佐藤毅さん(56)=東京都練馬区=が、閲覧者が音声の文字起こしに参加できる仕組みを提案。HPを改良して実現した。

 古川さんは、伊藤さんが唱えた「被爆者体験」の言葉をかみしめる。それは単なる「あの日」の体験にとどまらず、健康や家庭などを破壊された体験であり、闘病や家庭再建の歴史。HPでも、被爆時の記憶だけでなく、その後の歩みを伝える証言を並べている。

 HPにアップした音声証言は現在、計298人分に上る。その大半に英語で字幕を付けた。英語での被爆証言は、核保有国とりわけ米国の青年に被爆者の声を伝え、核兵器を再び使わせないための役割を担う。伊藤さんもそう願っていたからだ。

 さらに昨年12月、晩年の伊藤さんが収録した349人の動画のうち、被爆者自身が英語で語った9人分をアップした。伊藤さんの一周忌となる今年3月3日には、さらに9人分を追加公開した。

 英語での動画証言をアップすると、それまで月平均200件足らずだった英語版ページへのアクセスが急増。昨年12月は2500件を超えたという。

 反響も広がった。英国で暮らす長崎県出身の男性からは「英国の小中学校の歴史の時間に紹介したい」とメッセージが届いた。デンマークからは「証言者たちは偉大な役割を果たしている」とのコメントが寄せられた。

 動画の編集担当は映像製作者の難波稔典さん(43)=東京都新宿区。伊藤さん自身を描くドキュメンタリーも手掛けようとしていた難波さんは、その最中に亡くなった伊藤さんの仕事ぶりについて「逆境に遭っても、やり続ける。そこからでなければ得られない何かがある」と感じた。その思いを込め、日本語版の動画の編集作業を続けている。

 伊藤さんは亡くなる前、ブログにこう記した。「この世とおさらばしたあとも、おのれの遺志の跡継ぎは絶えないだろうと信じつつ」

HP「被爆者の声」のトップページ。http://www.geocities.jp/s20hibaku/

(2010年4月19日朝刊掲載)

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