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社説・コラム

コラム 視点 生涯かけ「被爆者体験」を声と映像で残した市民ジャーナリスト

■センター長 田城 明

 昨年8月、長崎であった反核フォーラムに参加し、軍事ジャーナリストの前田哲男さんと同席した。元長崎放送記者だった前田さんの1年先輩には伊藤明彦さんがいた。同じ放送局でそれぞれ10年間勤務した後、ともに退社したが、市民ジャーナリストの道を歩んだ伊藤さんとは終生交流が続いたという。

「伊藤さんは被爆の原点に徹底的にこだわる『復元主義者』だった」。講演の中で前田さんは、5カ月前に72歳で亡くなった友人をしのんで言った。「詩人高村光太郎の『冬の言葉』の一節、『一生を棒にふつて人生に関与せよと』という言葉が伊藤さんの好きな言葉だった」とも。

 前田さんの言葉と重ね合わせながら、2007年秋、広島で伊藤さんと初めて会ったときのことを思い浮かべた。中区のホテルに投宿しながら、1年余にわたる被爆者のビデオ収録を終えようとしていた。細身の体、優しい口調の中に、半生をかけ一つのテーマをひたすら追求し続けてきたジャーナリストの、反核・平和への強い意志とエネルギーがにじみ出ていた。

 原爆投下による人類史上、未曾有の惨禍を被った広島と長崎。8歳のとき、自らも長崎で入市被爆した伊藤さんにとって、原爆の惨状は脳裏に焼きついている。罪のない赤ん坊や少年少女、お年寄りの命までも奪った原爆。どのような理由があろうと原爆使用を許すことのできない彼は、一人一人の被爆体験や戦後の暮らし、その思いを生の声で残しておく責務を感じたのだろう。きっと生き残った被爆者の話を通して、死者たちの思いをもよみがえらせたかったに違いない。

 伊藤さんは「被爆者口承伝」とでもいうべき手法で、原爆被害の実態を「復元」したのだ。

 どの核兵器保有国も、保有を目指す国も、他国からの核攻撃を抑止することを保有の口実にする。だが、本当の抑止力は、広島・長崎で起こった事実を直視することから生まれる。事実を知り、「こんな兵器は地上にあってはならない」と核廃絶の輪が世界中に広がってゆく。伊藤さんは、そのことを固く信じて仕事を続けてきた。

 被爆者と会う時間を確保するために定職には就かず、早朝や夜間に働いては、生活費と取材費を稼いだ。1971年に始めた録音が約千人に達して区切りを付けたとき、彼はこう記している。

 「8年の流浪のあいだに、それまでの貯えも、まえの職場の退職金もなくなってしまいました。衣類も着はたしました。八冬を火の気なしですごしました。(中略)さいごには国民健康保険も納付できなくなって、なん年も手帳なしでくらしました。恥をさらすようですが、40歳をすぎて妻なく子なく職なく家なき状態が、作業を終わったときの私の姿でした。ただただ、録音テープだけが残りました。これもゆくゆくは、公の施設へ寄贈させていただくものですが」(『未来からの遺言』 青木書店 1980年刊)

 伊藤さんのこの仕事にかけた執念が伝わってくる。主として編集作業に当てた1980年代。彼は約束通り、全国各地の公共図書館や平和団体などに「被爆を語る」と題した作品を寄贈した。

 13キロもある重い録音機を肩にしたオープンリールの時代からカセットテープ、CD、DVDの時代へ。世界を瞬時につなぐインターネット。情報分野の目覚ましい技術革新と、伊藤さんの仕事への情熱に触れ、価値を見いだした協力者の出現が、彼に新たな希望を与えた。

 放送局を退職することで電波という「翼」を失った伊藤さん。しかし、インターネットという新たな「翼」で、国内外に被爆者の声を届ける手段を得たのである。

 広島でのビデオ取材を終え、東京へ戻る直前に投函(とうかん)された私あての手紙(2007年11月19日)が手元にある。

 「予定より一月長い滞在となりましたが、180人のお話をビデオ収録、対目標達成率100パーセントです。うち17人には英語でスピーチしていただきました。3年後の発信を目標にしているネット上の映像作品は英語版のみとし、原子爆弾の『子ども殺し』を正面から問うものにしたい構想です」

 完成を見ずに逝ってしまった伊藤さん。だが、彼の志を継ぐ人々が既にビデオ映像を基にウェブサイトで発信している。伊藤さんが生涯をかけて成し遂げた仕事は、すべての被爆者がいなくなった後も、歴史を証言する貴重な「被爆者の声」として生かされ続けるだろう。

【編注】高村光太郎の引用は原文のまま。「ふつて…」

(2010年4月19日朝刊掲載)

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