×

社説・コラム

ヒロシマと世界:米議会へ「平和省」提唱 非暴力の心 世界を変える

■デニス・クシニッチ氏 民主党下院議員(米国)

クシニッチ氏 プロフィル
 1946年10月、オハイオ州クリーブランド生まれ。1973年、地元のケース・ウェスタン・リザーブ大学で学士号、修士号(スピーチ・コミュニケーション学)を同時取得。1977年、31歳でクリーブランド市長に選出される。当時、国内主要都市の最年少市長として2年間務める。1996年よりオハイオ第10選挙区選出下院議員。2001年7月「平和省」法案を下院議会に提出し、平和長官を内閣に設けるように提唱した。この平和省構想は米国のみならず日本など各国に広がっている。2003年、ガンジー平和賞受賞。2004年と2008年、民主党の大統領予備選に立候補。米国ではリベラルな政治家として広く知られている。


米議会へ「平和省」提唱 非暴力の心 世界を変える
 

 すべての思考は概念的だ。平和思考は平和を創造し、戦争思考は戦争を生み出す。原子爆弾の開発は、武力によって平和を達成するという経験的原則に包まれた戦争思考から生まれている。

 私たちが戦争について深く探るとき、本質的に敵対し合う思考様式から生じていることが理解できる。すなわち、「私たち」対「彼ら」という二分的な思考である。二分的思考は、私たちが他の国や、他の人々と補完的な関係にあることを否定してしまう。彼らは自分たちとは違うとみなしたり、人間以下だと考えたり、自分たちを脅かしていると信じ込み、その結果、相手の存在を否定する行動に走ってしまうのだ。

 この考え方は、相手を破壊するだけでなく、自らの破壊をも招く。なぜなら、互いに相手を抹殺しようと努力することによって、自分たちをも破滅させることにつながるからだ。

 なぜそうなるのか。それは単に戦争が侵略者と侵略された者とを同じように非人間化するというだけではない。人類は一つであるという絶対的な規範を、戦争が無価値なものにおとしめてしまうからだ。人類は一つで、世界は相互にかかわり、依存し合っていることは否定すべくもない事実である。これは単に形而上学の概念だけで言っているのではない。ヒトゲノム理論では、人間は同じものから出来上がっている。私たちが誰かと戦争すれば、それは私たち自身に対して戦争を仕掛けているのである。

 私たちはなぜ戦争は不可避なものだと受け入れてしまうのだろうか。それは過去、現在、未来の戦争というものが人間社会の現実であるとの固定観念に縛られた思考形態を引き継いでいるからだ。

 戦争に伴う儀式と壮観さ、華やかさとものものしさ、犠牲と殉教、英雄たちと伝説を通じて、戦争を大いに文化的に受け入れてしまうことで、死者たちの魂が身を寄せることのできる世界がつくられることになる。たとえ国家として戦争の目的をはき違えたり、政策の失敗によって戦争への道をたどっていたりしても、ローマ時代の叙情詩にうたわれているように「祖国のために死するは、喜ばしくもふさわしきものなり」という約束にしがみつかざるを得なくなる。

 別の道はないと言われ、そのままうのみにするほど戦争は私たちの心理状態や考え方に大きな影響を与えている。もちろん別の道もある。しかし、私たちは平和の道を歩もうとする前に、私たちの公的生活を装い、私たち自身や国際社会において戦争状態に置かれたままの立派な神話に気づかなければならない。

 私たちは、原爆は戦争終結のために、平和構築のために、安全保障のために、そして国家の地位のために造られたという「原爆神話」の世界に生きている。しかし、原爆が造られた理由が何であれ、いったん使用されれば、概して同じ目的を持つ。大量殺りくである。

 今日の世界は、原爆投下前の広島と同じである。桜の花が咲き、鳥が空中を舞い、父母たちが優しく子どもたちの手に触れている。喜びを予期して華麗な人生のショーが私たちの前で繰り広げられる。その一方で別の私たちが、ことの重大さに構わず、核兵器の削減と製造が同時にできると偽っている。核兵器を使用して脅すことと使用しないこと、核兵器を確保し是認すること、核兵器を懇願し受け入れ、そして恐れることすべてが、同時に成り立つと偽っているのだ。

 大量破壊兵器は、私たちが自然の力を取り違えたときに表れる高慢さを大々的に映し出したものだ。力はだれの中にも存在し、人間の本質を照らし出す。戦争の暗さは人類の美をそぐかもしれないが、がれきから人々の心を動かす精神が現れ、真実へ向かい、天空の高みへと導いてくれるかもしれない。

 西側諸国は、広島と長崎に原爆を投下して以来、自らの恐怖に自分たちを縛りつけている。両被爆地がこうむった惨状にもかかわらず、今なお世界にはなぜこれほど多くの核兵器が存在するのか。核兵器を造り出そうとする考えが根強く社会に残っている限り、核兵器はなくならない。そしてその考えは、理性も心も破壊してしまう恐怖心から生まれているのだ。

 世界をよみがえらせるにはどうしたらいいのか。勇気を持って戦争や戦争への準備をすべて放棄することだ。日本国憲法第9条はそれを約束しており、この9条は日本人のみならず、世界中の人々への贈り物である。

 新たな構造物は、新たな可能性を生む。私たちの暮らしから暴力の原因を根絶することから始めよう。戦争は何百万人もの心に宿る戦争思考の巨大な集積によって存在する。人間の破壊の種は、家庭内暴力、配偶者や児童への虐待、暴力団と銃による暴力、ゲイに対する暴力の中に反映されている。暴力は後天的なものだ。私たちは子どもたちに非暴力による対応を教え、自らも学ばなければならない。

 暴力は私たちにとって必然的なものではない。しかし平和は、もし私たちが苦労をいとわず意識的に自分たちの行為を進んで省みようとするなら、必然的に訪れるものである。これまでは戦争に仕えるために召集されていたが、これからはあらゆる思考、言葉、行いが平和の目的のために招集されるだろう。

 2001年9月の米中枢同時テロで、世界貿易センターが標的となる2カ月前、私は内閣に「平和省」を創設するための議案を下院議会に提出した。その目的は、私たち社会の組織だった原則として、平和をつくりだすことを支援する機構を創設するためである。平和省設立法案はいつか、さらなる審議が下院議会で行われるだろう。

 この法案が提唱するのは、平和を科学として扱うことだ。この法案では、平和は単に戦争がないことではなく、相手への思いやりや配慮、慈しみ、そして意図的に害を与えないという積極的な能力が備わることで可能になるものとしている。

 社会的条件によって私たちは暴力を学んだのであれば、非暴力で互いにかかわりを持つ手段も学べるはずである。「暴力はなくならないもの」という神話をずっと抱いてきたために、私たち自身に対する期待も最低のものになっている。この誤解の下では、奇跡的な力を発揮することができる人間の超越的能力は否定され、私たちは今以上のものになれるという考えすら持てなくなる。

 もし私たちが社会的・政治的変革を熱望するならば、進化の道は私たち自身の心から始まる。私たちは、すべての人々の尊厳、敬意、思いやりを皆に与えながら人生の道を静かに歩むことで、新たな世界をつくることができる。個人は仲間を鼓舞し、仲間は世界を鼓舞する。

 今年3月、広島の高校生が首都ワシントンを訪れ、オバマ大統領に贈る1000羽の折り鶴を私に託した。これこそ日本の子どもたちの願いだ。私は彼らが箱から取り出す色とりどりの折り鶴にじっと見入った。折り鶴を一羽一羽丹念に折った一人一人の日本の子どもたちの意図について思いをめぐらせた。世界平和という共通の目的に向けて努力する、小さな手の力を感じた。

 私は世界の子どもたちの手を思い浮かべた。遊びで折り鶴を折っている手だ。私は時と空間を超えて未来を見つめ、子どもたちが成長し、剣を打ち負かしてすきの刃に換え、やりを打ち負かしてかまに換える姿を見た。そしてまた、世界が、広島・長崎を振り返り、犠牲者に祈りをささげ、その犠牲を悼み、彼らの愛で自分たちを守ってくれていることに感謝する姿をも見た。

(2010年6月14日朝刊掲載)

この記事へのコメントを送信するには、下記をクリックして下さい。いただいたコメントをサイト管理者が適宜、掲載致します。コメントは、中国新聞紙上に掲載させていただくこともあります。

年別アーカイブ