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社説・コラム

「ヒロシマと世界」: 原爆投下・核抑止力「容認」を覆す被爆証言の力

■ピーター・カズニック氏 アメリカン大学歴史学教授(米国)

カズニック氏 プロフィル
 1948年7月、米ニューヨーク市生まれ。1984年、ラトガース大学で博士号(歴史学)を取得。1986年から首都ワシントンにあるアメリカン大学で教え、現在は歴史学教授のほかに核問題研究所所長を兼務。著書に『研究所を超えて 1930年代米国で政治活動家として活躍した科学者』、共著に『冷戦文化の再考』。木村朗鹿児島大学教授との共著『広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点』は、今年末に日本語で出版予定。オリバー・ストーン監督が手掛け、2011年1月テレビ公開予定の10部からなるドキュメンタリーフィルム「アメリカの隠された歴史」の台本を執筆中。同名の本についてもオリバー・ストーン監督と共同で執筆している。


原爆投下・核抑止力「容認」を覆す被爆証言の力
 

 100人以上の被爆者が5月、国連で開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて米国を訪れた。彼らは二つの非常に規模の小さい、初歩的な原子爆弾でさえ人類に何をもたらすかを伝える生き証人としてやって来た。被害者としてではなく、人類の良心として。この地球上のすべての生き物に今もなお脅威を与えている核兵器の巨大な災禍と闘う不屈の活動家として。核兵器が再び使用されてはならないという一つのメッセージと、地球上からすべての核兵器がなくなる日を見届けるまで生きるという一つの決意をもってやって来たのだ。

 彼らは平和大使として、滞在中何千人もの人々と交流した。私が発起人となり、米中枢同時テロの被害者と被爆者を引き合わせた会議で話し合った。地域の関係者や平和団体の人々と交流した。国連では各国代表に呼び掛け、原爆展を開き、国連幹部や政府代表と面会した。学校や大学を訪ね、あらゆる年齢の子どもや若者たちを啓発した。1万人を超す人々とともにマンハッタン市街をデモ行進し、核兵器廃絶を訴えた。

 この間、被爆者はどこに行っても大勢の日本のメディアに囲まれ、取材を受けた。しかし、米国の主要メディアからは、ほぼ完全に無視された。これらの企業メディアは、米国人はまだ65年前に自分たちの国が行ったことに向き合う準備ができていないと信じていたに違いない。

 私は被爆者の訴える力を直接知っており、1995年から教えている学生たちを広島と長崎に連れて行くプログラムを始めた。教え子の1人で、現在、九州大学大学院准教授の直野章子さんは、広島の原爆で祖父を亡くした。母と祖母は被爆者である。私は原爆投下から50年の節目に、彼女と共にアメリカン大学に核問題研究所を設立した。核の歴史と文化について授業で教え、学生たちを京都と広島へ連れて行った。

 一方、同じ年にスミソニアン航空宇宙博物館は、広島への原爆投下機「エノラ・ゲイ」の機体と、犠牲者の遺品など広島・長崎の原爆被災資料の同時展示を断念した。原爆投下は本土への侵攻なしに戦争を終結させ、何十万人もの米兵の命を救ったという米国の公式見解が、展示によって損なわれると保守派が抗議したためだ。博物館がこうした誤った歴史を押しつけようとする者たちの圧力に屈したことに、私たち歴史家は激しく非難した。しかし、私たちの抗議は受け入れられなかった。

 その後、広島・長崎両市の関係者からアメリカン大学に、スミソニアン博物館に展示を計画していた被災資料の一部を展示してもらえないかとの打診があり、私たちはすぐさまその機会に飛びついた。そして被爆50周年に合わせた、日本以外では唯一の原爆展を開催した。

 その夏、私は最初の学生の一団を日本に連れて行き、大半の手配を行ってくれた立命館大学の藤岡惇経済学部教授との親交が始まった。私は「ヒロシマ」について何年も教えていたが、被爆50年の平和記念式典への参列は言葉に表せないほど感動を覚える体験だった。

 京都、広島、そして1998年からは長崎も加わった2週間にわたる平和研修旅行は、人生を変える出来事だと学生はよく話してくれる。最初の夏の研修は、間違いなく私の人生を変えた。私は12歳のときから公民権、反戦の活動家で、核兵器廃絶を長く支持してきた。私の研究は、主として科学者の政治活動に注がれていた。当時私は、米国の科学者とベトナム戦争についての本を執筆していた。だが、広島訪問後、私の興味はほとんど原爆投下と核の歴史に向かった。

 年1度の日本への研修旅行は、アメリカン大学の学生と、藤岡教授が教えている立命館大学、および立命館アジア太平洋大学の学生たちが共に生活し、旅行し、学習する共同作業の場となっている。この研修プログラムは2回目の1996年、大きな飛躍を遂げた。その年、私は近藤紘子さんに出会った。彼女は、1946年に出版された米作家ジョン・ハーシー著の『ヒロシマ』に描かれている6人の被爆者の1人、谷本清牧師の娘さんだった。原爆をテーマにした古典とも言える『ヒロシマ』は、被爆者を初めて生身の人間として米国の読者に紹介した作品である。わずか8カ月で被爆した紘子さんは、アメリカン大学の優秀な卒業生だった。その夏、彼女は自身の悲痛な体験について学生たちに語ってくれた。それ以来、私たちが研修で日本に滞在するときはいつも行動を共にし、体験を分かち合ってくれている。

 原爆投下の歴史について米国人を教育することは非常に重要なことだが、困難なことでもある。若い米国人の3分の1以上は、原爆が初めて投下された場所が広島だということ、また自分たちの国が第2次世界大戦で原爆を日本に対して使用したということを知らない。昨夏のある調査によれば、61%が依然として原爆投下を容認しており、反対は22%にすぎない。85%が容認した1945年の調査と比較すれば進歩とみなすことができるかもしれないが、現状には失望を禁じえない。

 2003年にスミソニアン当局が、航空宇宙博物館新館にエノラ・ゲイの機体を新たに展示しようとしたとき、反対の先頭に立っていた私は、個人的に再びこの問題に直面することとなった。博物館の館長は、機体の展示について「素晴らしい科学技術の結晶であるという栄光のみに焦点を当てて展示する」と発表した。私たちの仲間の多くは、被爆者の代表団も含め、そのような展示は低俗であるとして、その思いを伝えようとした。何百人もの学者、ノーベル平和賞受賞者、ピュリツァー賞受賞者が非難したにもかかわらず、またしても私たちの抗議は黙殺された。

 しかし、いくつかの励みとなる進展もある。オバマ大統領が、核兵器廃絶を世界的課題に引き戻した。2009年4月の人々の心を鼓舞するプラハ演説で、オバマ大統領は「核兵器を使用した唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任がある」と明言した。米国が負う特別な責任について認識することは、核廃絶へ向けた重要な一歩となる。

 二つ目は、トルーマン大統領の原爆投下決定について尋ねた昨年の世論調査結果だ。それによると、55歳以上の73%は投下を支持しているが、18歳から34歳の年齢層では50%まで支持が下がっている。私が教えている学生たちのように若い米国人世代は、第2次世界大戦中に五つ星を獲得した米海軍将官や陸軍大将の7人のうち6人が、原爆投下は道徳的に非難されるべきだとか、あるいは軍事的に不必要だったと信じていた点について積極的に向き合おうとしている。

 核の歴史について米国市民の理解を変えようと試みることは、非常にフラストレーションを覚えることである。しかし、学生たちを広島や長崎に連れて行くことが最適の解決方法を与えてくれる。広島の秋葉忠利市長や日本人の専門家との意見交換は、常に知的興味をわかせてくれる。そして、被爆者の証言を直接聞くことが、学生たちにとって忘れられない体験となる。

 多くの学生の例があるが、一つだけ紹介しよう。30代の女性は、祖父が重巡洋艦インディアナポリスの乗組員だった。インディアナポリスは、1945年7月にテニアン島へ最初の原爆を運んだ後、日本軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けた。多くの乗組員は船ごと沈んだか、サメの餌食になったか、救助を待っている間におぼれ死んだ。

 この学生は祖父からインディアナポリスの撃沈の話や、おぼれた船員を助けなかった日本の潜水艦の艦長への怒りを聞かされて育った。彼女は私たちの議論の中で、原爆投下を強く擁護した。ところが、日本に来て数日後、そのことに疑問を呈し始めた。そして2008年の平和研修旅行が終わる前には、熱心に原爆投下を非難するようになった。彼女は現在、被爆者の体験の持つ意味について博士論文を書いており、この夏には3度目の研修旅行に参加する予定だ。

 これほど劇的な変化を遂げる学生はまれだが、学生の中には、軍縮や軍備管理の分野の職についていたり、核問題について文章を書いたりしている。そして、ほとんどすべての学生が核兵器廃絶の熱心な支持者となっている。

 私は常に学生たちが一つのこと確実に学ぶように心掛けている。広島や長崎への原爆投下は、何十万の人々の命を奪い、被爆者に苦難を強いる第1級の戦争犯罪だが、使用されたのは原初的な爆弾であったということだ。米国はやがて水素爆弾を開発した。1950年代のアイゼンハワー大統領時代には、米国の核兵器保有数は1750個から2万3千個に増加した。

 ソ連は1961年に50メガトン級の爆発威力を有する水爆実験を行った。その威力は、広島型原爆の3千倍以上である。世界の核兵器の破壊力は、すぐに広島原爆の150万倍を超えた。今でも2万3千個の恐ろしく正確で、威力のある核兵器が地上に残されているのだ。こうした核兵器が再び使用されるような事態になれば、広島・長崎の出来事が小さくさえ見えてしまうだろう。

 55年前、ドイツ生まれの米国の物理学者アルバート・アインシュタインと英国の数学者で哲学者のバートランド・ラッセルは、もしロンドンやモスクワ、ニューヨークが破壊されれば、人間がその地に再び生活するようになるには2、3世紀を要するだろうと書いた。しかし、全面的な核戦争になれば、生き残る者は一人としていないだろうと警告した。

 その危険は、今日も厳然として私たちにつきまとっている。人類滅亡の可能性こそが、核時代の真に意味するものだ。このような危険を正当化するものは何もない。私たちは、被爆者のメッセージをしっかりと心に留め、手遅れになる前に核兵器廃絶を実現しなければならない。

(2010年6月28日朝刊掲載)

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