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社説・コラム

コラム 視点 「国家補償実現に必要な一般戦災者との連携、体験継承・核廃絶にも力を」

■センター長 田城 明

 連合国軍総司令部(GHQ)がプレスコード(報道統制)を敷いた占領下の日本では、放射線被曝(ひばく)による人体への影響など、広島・長崎の原爆被害の悲惨な実態はほとんど報道されることがなかった。肉親を奪われ、自らも傷つきながら多くの被爆者は、政府からの支援もなく、互いのつながりもないまま、社会の片隅で孤立して生きていた。

   1954年3月、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で米国が実施した水爆実験。この実験で大量の「死の灰」を浴びた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人と、捕獲しながら地中投棄を余儀なくされた放射能汚染マグロは、日本人に核兵器の恐怖をあらためて知らしめた。ビキニ事件をきっかけに生まれた原水爆禁止運動。翌1955年8月には初めて原水爆禁止世界大会が、被爆地広島で開かれた。

 大会宣言には、原爆被害者の救援が原水爆禁止運動の基礎だとうたわれた。大会で発言した広島の被爆女性は、10年間の悲しみと苦難を受け止めてくれた数千人の参加者の温かい心に触れ、「生きていてよかった」と思わず口にしたという。

 原水禁運動の興隆に励まされるように、孤立しがちだった被爆者も結束し、全国へと組織が広がった。1956年5月には、広島県原爆被害者団体協議会が誕生。8月には全国の被爆者団体をまとめる形で、日本原水爆被害者団体協議会の結成大会が長崎市で開かれた。「原水爆犠牲者の国家補償」「被爆者の治療・自立更生対策」「遺家族の生活補償」のほかに、「原水爆禁止運動の促進」のスローガンが掲げられた。

 「われわれはあの恐ろしい原水爆が禁止されて世界の恒久平和が達成され、被害者が真に救われる日までこの運動を続けましょう」。大会決議文は、こう結ばれている。

 結成から54年。日本被団協は紆余曲折(うよきょくせつ)を経ながら、医療面や手当の支給などいくつかの法律によって被爆者援護対策の拡充を勝ち取ってきた。しかし、当初からの目標だった原爆死没者やその遺族は対象とならなかった。例えば、田舎へ学童疎開中に家族が全滅し、入市被爆の対象にもならなかった原爆孤児らは、いまだに政府から何の援助も得られていない。彼らもまた、原爆による最大の被害者であった。

 これまで政府は、原爆による「放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害である」として、被爆者への援護を続けてきた。あくまでも社会保障の枠内であって、国の戦争責任を認めたうえでのことではない。国をあげての戦争による「一般の犠牲」は、すべての国民が等しく「受忍」しなければならない。ただ、放射線を浴びた被爆者は「特殊の被害」との立場である。

 日本被団協は、国が戦争責任を認め、国としての償い、すなわち「国家補償」に立った被爆者援護法を一貫して求めてきた。そのことが核戦争による「受忍」を拒否し、米国の「核の傘」を含め、核兵器の否定を政府に迫ることになるからだ。

 国家補償に基づく被爆者援護法の制定が、東京大空襲など膨大な数の一般戦災者や、核実験など世界の核被害者の補償にも道が開けていくと説いてきた。その目標と方向性は間違ってはいないだろう。ただ、空襲による一般戦災者や世界のヒバクシャとの連携は、早くから言われながら、必ずしも狙い通りに進まなかったのも事実である。あらためて国家補償を求めるには、一般戦災者らとの連携は不可欠だろう。

 このほど東京都内であった被団協の定期総会で各県の代表者らに配布された「現行法改正要求(案)」を読んでみた。現行法とは、1995年に施行された被爆者援護法のことである。

 前文の改正や、「原爆死没者の遺族に対して弔慰金、あるいは特別給付金を明記すること」など8項目の要求案には、それぞれに要求の背景が丁寧に説明されている。そして文案の最後には「核戦争をおこすな、核兵器をなくせ!原爆被害者援護法の制定を今すぐに!」とあり、「この願いが実ったとき、被爆者は初めて『平和の礎』として生きることができ、死者たちはようやく、安らかに眠ることができるのです」と記す。

 「人類が二度とあの“あやまちをくり返さない”ためのとりでをきずくこと。―原爆から生き残った私たちにとってそれは、歴史から与えられた使命だと考えます。この使命を果たすことだけが、被爆者が次代に残すことができるたった一つの遺産なのです」。こうもつづる。

 平均年齢75歳を超えた被爆者たちがこれほど高い理念を掲げて、核兵器廃絶に向けて活動していることに敬意を表したい。実際、ニューヨークの国連本部であった5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議でも、多くの被爆者が現地へ出かけ、原爆展や証言活動などを通して核廃絶をアピールした。

 懸念されるのは、援護策のさらなる充実といったことがどこまでほかの戦争被害者や市民の支持を得るかということだ。日本政府に非核三原則の法制化を求めたり、学校教育のカリキュラムで原爆被害についてきちんと取り上げることを要求したりするなどは、援護策の充実とは別個に考えても取り組めるのではないだろうか。

 援護策の充実のほかにも、被爆者にとって自らの体験や、核廃絶の願い、不戦の心を次世代に直接伝えることも大きな役割であろう。残された時間は決して多くないだけに、こちらの方にもしっかり時間とエネルギーを割いて取り組んでいただきたい。海外を含め、多くの人々が被爆者に期待するのもこの点にこそあるからだ。

(2010年6月21日朝刊掲載)

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