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社説・コラム

平和宣言 時代を反映 ――広島 変遷たどる

■記者 明知隼二

 8月6日の平和記念式典で、広島市長は今年も「平和宣言」を読み上げる。1947年の第1回平和祭以来、時代背景や社会状況を反映しつつ、核兵器廃絶や世界平和の実現など被爆地からのメッセージを発信し続けてきた。その変遷をたどりつつ、近年の特徴や長崎の平和宣言との違いを整理してみる。

「福竜丸」から訴え継続

核兵器廃絶

 浜井信三氏による最初の平和宣言(1947年)は「原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味する」「永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう」と、核兵器廃絶より戦争自体の否定を前面に押し出した。

 核兵器廃絶へのメッセージが加わるのは、米国のビキニ水爆実験で第五福竜丸が被曝(ひばく)した1954年以降だ。1955年には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれるなど原水爆禁止運動が盛り上がり、1957年の宣言は核抑止力の考えを「愚かなまぼろしにすぎない」と断じた。そして翌1958年には「核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立」を求めるに至る。

 以来、半世紀以上にわたって平和宣言は、核兵器廃絶を訴え続けてきた。ただ、まだ全廃が見えない国際情勢に、被爆者の岡田恵美子さん(73)=東区=は「被爆者や平和活動家だけでなく、若者たちを行動へと奮い立たせるメッセージを発信してほしい」と期待をよせる。

79年以来の主張実る

援護法制定

 国家補償の理念に基づく援護法制定を求める被爆者たちの運動を受け、宣言では1979年から関連の主張がうかがえる。しかし厚生相(当時)の諮問機関、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)は1980年12月、国の戦争による犠牲について「すべての国民がひとしく受忍しなければならない」と答申。翌1981年の宣言は「国家補償の精神に基づく被爆者や遺族への援護対策の拡充強化を求める」などと強い口調で日本政府に姿勢の転換を求めた。

 1995年に被爆者援護法が施行されると、平和宣言では、国内外の被爆者への「実態に即した援護」が焦点となる。2003年以降は、原爆投下直後に降った「黒い雨」への言及も続く。広島県原爆「黒い雨」の会連絡協議会の高野正明会長(72)=佐伯区=は「黒い雨が原爆被害として位置づけられている意味は大きい」と評価する。

91~95年 加害に言及

アジアへの視線

 平岡敬市長は1991~95年、初めて日本の戦争中の加害行為に触れ、「大きな苦しみと悲しみを与えた」としてアジア太平洋地域の人たちへの謝罪を盛り込んだ。

 韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部の豊永恵三郎支部長(74)=安芸区=は、今年が日韓併合100年の節目でもある点を踏まえ「アジアにおけるヒロシマの位置づけを再認識すべきだ」と求めている。


秋葉市長の宣言 宇吹教授(広島女学院大)が分析

「和解」「人道」… 哲学前面に

 秋葉忠利市長の平和宣言について、広島女学院大の宇吹暁教授(日本現代史)に内容を分析してもらった。

 平和宣言は「原爆被害を受けた広島市民の代表」として市長が発表してきた。秋葉市長の宣言の特徴は歴代市長に比べ、自身の哲学や発想をより前面に押し出している点だ。

 例えば「和解」や「人道」のキーワードをちりばめながら平和観を打ち出し、近年は2020年までの核兵器廃絶を目指す「2020ビジョン」、廃絶を願う人間が多数派だとの意味を込めた「オバマジョリティー」など独自のキャンペーンも盛り込んでいる。

 こうした点は山田節男氏(1967~75年在任)と似ている。彼は世界連邦主義という一つの国際的な潮流を意識し、「世界法」や「世界国家」などの表現で独自の平和論を展開した。1971年の宣言では「一切の軍備主権を人類連帯の世界機構に委譲すべきだ」と大胆な提案もした。

 秋葉市長も対人地雷やクラスター爆弾の禁止条約に言及するなど、世界の平和運動の流れを意識している印象がある。

 昨年はオバマ米大統領の言葉を借り「イエス・ウィー・キャン(私たちにはできる)」と英語で宣言を締めくくったのも特徴的だ。私が普段接する学生たちには好評だった。ただ、パフォーマンス的だと首をかしげた人もいたのではないか。

 国際社会でヒロシマ・ナガサキの持つ意味は大きく、広島市には発言力がある。その象徴性を生かし、世界や次世代に向けた「ヒロシマの哲学」を感じられるよう、被爆体験に根ざしたメッセージを発信し続けてほしい。


宣言づくり 異なるプロセス

市長と市部局が文案 広島
市民交え委員会方式 長崎

 広島、長崎両市の宣言づくりのプロセスは大きく異なる。広島市の場合、研究者や被爆者、芸術家ら外部有識者の意見を参考にしながら、市長と市の平和関連部局で文案を作成する。

 一方、長崎市では平和宣言文起草委員会が主体となる。市長が委員長を務め、研究者や報道関係者、主婦ら市民代表を加えた約20人で構成。5月から7月にかけて会合を重ね、意見を出し合いながら文面を練り上げる。

 今年20回目の起草委員を務めた土山秀夫・元長崎大学長(85)は「被爆の実態、日本政府への注文など各委員がメッセージを持ち寄るため、散逸した文章になるのは否めない」とし、一方で広島の宣言については「市長の理念を打ち出すため筋が通り、理解しやすい」と評価する。

 その上で「被爆地として何を評価し、何を批判するのか。幅広い層の委員たちが毎年議論し、整理する意味は大きい。市民の意思をある程度、要約できていると思う」と長崎方式の意義を語る。

 広島でも、市民意見を反映するよう望む声がある。核兵器廃絶をめざすヒロシマの会の森滝春子共同代表(71)=佐伯区=は「被爆者や市民が宣言づくりに参加し、被爆地の総意として発信すれば、その意義や価値はより高まる」と訴える。

 これに対し広島市平和推進課は「電子メールやタウンミーティングを通じ多くの意見が市民から寄せられている。敏感に採り入れるようにしている」と説明している。

(2010年7月19日朝刊掲載)

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