長崎の被爆体験 紡ぎ40年 「証言の会」に学会平和賞
10年10月9日
■ヒロシマ平和メディアセンター事務局長 難波健治
被爆地長崎の体験を語り継ぐ「長崎の証言」活動が、40年以上も途絶えることなく続いている。刊行した証言集は67冊を数え、千人を超える被爆証言を集めた。活動の積み重ねを通して新しい市民運動も芽生え、根付いてきた。1968年に動きだした活動母体「長崎の証言の会」(代表委員・内田伯(つかさ)さんら3人)に対し、日本平和学会(石田淳会長)は来月6日、第3回平和賞を贈って長年の功績をたたえる。
「長崎の証言」はこれまで4次にわたる運動を展開してきた。1969年に証言集「長崎の証言」を創刊してから10年間は年1回の証言集を発行した(第1次=計10冊)。1978年から年4回の季刊「長崎の証言」(第2次=計12冊)に移行し、1982年からは広島の証言活動と連携して季刊「ヒロシマ・ナガサキの証言」の刊行を5年余り続けた(第3次=計21冊)。1987年以降は年刊に戻し、「証言―ヒロシマ・ナガサキの声」が現在まで24冊を数えている。
代表委員の一人、浜崎均さん(79)は「活動が継続したのは、会の基本理念を持ち続けたからだ」と振り返る。
会は草創期から医師の秋月辰一郎(たついちろう)さん(1916~2005年)が代表を務め、大学教授の鎌田定夫さん(1929~2002年)が編集責任者として企画や実務を担当してきた。鎌田さんは結成20年の節目にこんな文章を残している。
「会の持続と前進の力の源泉は何であったのか。一瞬にして地球が裸になり、人間が虫ころのように殺された、あの日の惨劇を再び繰り返させまい、という私たちの死者への誓いであり、また、〝核抑止力〟などという好核勢力、核権力の欺瞞(ぎまん)にたいするはげしい怒りである」
この「志」を原点に、会は次のような理念を持ち続けた。
特定の党派に属さない自主的な市民運動▽行政の補助を受けない自律的な草の根運動▽原爆否定と被爆者救援の立場を貫く▽いかなる批評にも耐えうる文章と証言を生み出す―。原水爆禁止運動の統一回復も悲願としてきた。
運動が始まる前年の1967年、当時の厚生省は「被爆者と非被爆者との間には健康と生活上の有意の格差はない」とする被爆者実態調査結果を発表した。被爆地の反発は大きかった。被爆者有志や研究者、教師らが「自分たちの手で調査を」と乗り出した。この動きが証言を記録する運動へとつながった。
そのころ秋月さんは、次のような体験をしている。
原爆投下直後から被爆者の救援医療活動に携わった秋月さんは1966年夏、被爆後1年間の体験を記した「長崎原爆記」を出版した。1968年には東京で全国紙主催の長崎原爆展が開かれ、秋月さんはここで講演し、聴衆に深い感銘を与えた。しかし、秋月さんは会場で大きな衝撃を受ける。
「会場には広島の原爆に関する本はたくさん並べてあったが、おどろいたことに長崎原爆の本は一冊も置いてなかった。私の本さえなかった」(「『原爆』と三十年」)。「私たち長崎の人びとは長崎の体験を語らなさすぎるのである。私たちは大いに語らねばならぬ。語ることは私たちの義務である」(「長崎の証言」第1集)
衝撃をバネに秋月さんは証言運動の先頭に立っていく。
二つの被爆地はかつて「怒りの広島、祈りの長崎」と表現されてきた。証言集めや出版活動に限らず、さまざまな運動で広島が先行した。遅れて始まった長崎はその分、運動に確かな理念と目標を持つことを迫られた。結果としてそれが、現在に至る活動を営々と積み重ねることにつながった、ともいえる。
そんな長崎の証言運動を特徴づける言葉がもう一つある。被爆体験の「思想化」だ。
編集責任者の鎌田さんは1975年の座談会でこう語った。「原爆体験が広島、長崎の体験にとどまり、日本人の体験として共有されていない。戦争体験と原爆体験が一本化されていないからだ。問題は戦争責任の自覚と追及であり、その結果として原爆の現実を訴えるのでないと、限定した人の活動にしかならない」。被爆外国人の立場から体験をとらえる試みも「思想化」を意識した取り組みだった。
初代事務局長で代表委員の広瀬方人(まさひと)さん(80)=元高校教師=は、「思想化」の意味を「被爆者が体験を書いたり語ったりすることを通して、自ら反核運動の中に身を投じること」と理解してきたという。
「原爆が落ちたとき長崎にいた人の体験をすべて集める。ジグソーパズルを埋めるようにしてできた全体像が原爆の実相だ。証言運動はそのためにある」
広瀬さんが秋月さんから聞いた考えだ。証言を集める中で「私の体験なんか取るに足らない」と尻込みする人は少なくない。そんな時にこのジグソーパズルの話をし、「あなたの体験は世界の人々にとって貴重なもの。再び悲惨な歴史を繰り返さないためにはあなたの証言が欠かせない」と説得してきた広瀬さん。ささやかだと思う体験でも語り、書く。その行動が思想化だと言う。
そうして積み重ねてきた証言は、新たな市民運動を生み出した。
2000年に始まった「核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」は毎回、国内外から3千人を超える市民を集め、ほぼ3年に1度開かれている。それは長崎市民ぐるみの平和教育運動でもある。
被爆者の声を国連に届けようと1998年から始まった「高校生平和大使」は、3年目から、核兵器と戦争のない世界を願う1万人署名を届ける運動として広がった。今では毎年7万~8万人の署名を携え、ジュネーブの国連欧州本部を訪ねている。
長崎の被爆証言運動は、核兵器廃絶の願いを次世代に継承する確かな底流として被爆地に深く根付いている、といえるのではなかろうか。
長崎の証言の会は鎌田定夫さん抜きでは語れない。会の「顔」が秋月辰一郎さんであったとすれば、運動を推進するためにさまざまなアイデアを企画提案し、運動をリードしてきたのが、編集責任者の鎌田さんだった。
鎌田さんの口癖は「党派を超えた運動」だった。8年前に亡くなるまで、原水爆禁止世界大会の統一を願い続けていた。被爆体験の思想化を一貫して追究した人でもあった。
体験の思想化とは何か。説明は難しいが、被爆者とその証言に触れた人に、核兵器廃絶に向けた行動を始める自己変革を迫る意味が込められていた。そのため鎌田さんは、被爆体験を8・9につながる歴史とその後の生活の変遷を含めて総合的につかむよう求めてきた。 証言の会のこれからだが、鎌田さんが生きていたらどうするだろうか、といつも思う。
鎌田さんは「非核・不戦の21世紀という人類的課題を実現するために証言運動を」と言ってきた。会員400人の命が続く限り、証言の記録・出版活動は続けていきたい。そのためには新しい聴き手、若い会員を会に取り込んでいく必要がある。
幸い、証言運動が底流となって長崎にも新しい運動が芽生えている。いずれも証言の会のメンバーが深くかかわっている。これらの運動を鍛え、励ますような、質の高い証言運動を今後も目指したい。(談)
(2010年10月4日朝刊掲載)
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被爆地長崎の体験を語り継ぐ「長崎の証言」活動が、40年以上も途絶えることなく続いている。刊行した証言集は67冊を数え、千人を超える被爆証言を集めた。活動の積み重ねを通して新しい市民運動も芽生え、根付いてきた。1968年に動きだした活動母体「長崎の証言の会」(代表委員・内田伯(つかさ)さんら3人)に対し、日本平和学会(石田淳会長)は来月6日、第3回平和賞を贈って長年の功績をたたえる。
惨劇繰り返させぬ 原点
■発足の理念
「長崎の証言」はこれまで4次にわたる運動を展開してきた。1969年に証言集「長崎の証言」を創刊してから10年間は年1回の証言集を発行した(第1次=計10冊)。1978年から年4回の季刊「長崎の証言」(第2次=計12冊)に移行し、1982年からは広島の証言活動と連携して季刊「ヒロシマ・ナガサキの証言」の刊行を5年余り続けた(第3次=計21冊)。1987年以降は年刊に戻し、「証言―ヒロシマ・ナガサキの声」が現在まで24冊を数えている。
代表委員の一人、浜崎均さん(79)は「活動が継続したのは、会の基本理念を持ち続けたからだ」と振り返る。
会は草創期から医師の秋月辰一郎(たついちろう)さん(1916~2005年)が代表を務め、大学教授の鎌田定夫さん(1929~2002年)が編集責任者として企画や実務を担当してきた。鎌田さんは結成20年の節目にこんな文章を残している。
「会の持続と前進の力の源泉は何であったのか。一瞬にして地球が裸になり、人間が虫ころのように殺された、あの日の惨劇を再び繰り返させまい、という私たちの死者への誓いであり、また、〝核抑止力〟などという好核勢力、核権力の欺瞞(ぎまん)にたいするはげしい怒りである」
この「志」を原点に、会は次のような理念を持ち続けた。
特定の党派に属さない自主的な市民運動▽行政の補助を受けない自律的な草の根運動▽原爆否定と被爆者救援の立場を貫く▽いかなる批評にも耐えうる文章と証言を生み出す―。原水爆禁止運動の統一回復も悲願としてきた。
広島に遅れ 運動始める
■二つの被爆地
運動が始まる前年の1967年、当時の厚生省は「被爆者と非被爆者との間には健康と生活上の有意の格差はない」とする被爆者実態調査結果を発表した。被爆地の反発は大きかった。被爆者有志や研究者、教師らが「自分たちの手で調査を」と乗り出した。この動きが証言を記録する運動へとつながった。
そのころ秋月さんは、次のような体験をしている。
原爆投下直後から被爆者の救援医療活動に携わった秋月さんは1966年夏、被爆後1年間の体験を記した「長崎原爆記」を出版した。1968年には東京で全国紙主催の長崎原爆展が開かれ、秋月さんはここで講演し、聴衆に深い感銘を与えた。しかし、秋月さんは会場で大きな衝撃を受ける。
「会場には広島の原爆に関する本はたくさん並べてあったが、おどろいたことに長崎原爆の本は一冊も置いてなかった。私の本さえなかった」(「『原爆』と三十年」)。「私たち長崎の人びとは長崎の体験を語らなさすぎるのである。私たちは大いに語らねばならぬ。語ることは私たちの義務である」(「長崎の証言」第1集)
衝撃をバネに秋月さんは証言運動の先頭に立っていく。
二つの被爆地はかつて「怒りの広島、祈りの長崎」と表現されてきた。証言集めや出版活動に限らず、さまざまな運動で広島が先行した。遅れて始まった長崎はその分、運動に確かな理念と目標を持つことを迫られた。結果としてそれが、現在に至る活動を営々と積み重ねることにつながった、ともいえる。
戦争責任の自覚 不可欠
■「思想化」
そんな長崎の証言運動を特徴づける言葉がもう一つある。被爆体験の「思想化」だ。
編集責任者の鎌田さんは1975年の座談会でこう語った。「原爆体験が広島、長崎の体験にとどまり、日本人の体験として共有されていない。戦争体験と原爆体験が一本化されていないからだ。問題は戦争責任の自覚と追及であり、その結果として原爆の現実を訴えるのでないと、限定した人の活動にしかならない」。被爆外国人の立場から体験をとらえる試みも「思想化」を意識した取り組みだった。
初代事務局長で代表委員の広瀬方人(まさひと)さん(80)=元高校教師=は、「思想化」の意味を「被爆者が体験を書いたり語ったりすることを通して、自ら反核運動の中に身を投じること」と理解してきたという。
「原爆が落ちたとき長崎にいた人の体験をすべて集める。ジグソーパズルを埋めるようにしてできた全体像が原爆の実相だ。証言運動はそのためにある」
広瀬さんが秋月さんから聞いた考えだ。証言を集める中で「私の体験なんか取るに足らない」と尻込みする人は少なくない。そんな時にこのジグソーパズルの話をし、「あなたの体験は世界の人々にとって貴重なもの。再び悲惨な歴史を繰り返さないためにはあなたの証言が欠かせない」と説得してきた広瀬さん。ささやかだと思う体験でも語り、書く。その行動が思想化だと言う。
そうして積み重ねてきた証言は、新たな市民運動を生み出した。
2000年に始まった「核兵器廃絶―地球市民集会ナガサキ」は毎回、国内外から3千人を超える市民を集め、ほぼ3年に1度開かれている。それは長崎市民ぐるみの平和教育運動でもある。
被爆者の声を国連に届けようと1998年から始まった「高校生平和大使」は、3年目から、核兵器と戦争のない世界を願う1万人署名を届ける運動として広がった。今では毎年7万~8万人の署名を携え、ジュネーブの国連欧州本部を訪ねている。
長崎の被爆証言運動は、核兵器廃絶の願いを次世代に継承する確かな底流として被爆地に深く根付いている、といえるのではなかろうか。
代表委員 広瀬方人さんに聞く
芽生えた活動 鍛え励ます
長崎の証言の会は鎌田定夫さん抜きでは語れない。会の「顔」が秋月辰一郎さんであったとすれば、運動を推進するためにさまざまなアイデアを企画提案し、運動をリードしてきたのが、編集責任者の鎌田さんだった。
鎌田さんの口癖は「党派を超えた運動」だった。8年前に亡くなるまで、原水爆禁止世界大会の統一を願い続けていた。被爆体験の思想化を一貫して追究した人でもあった。
体験の思想化とは何か。説明は難しいが、被爆者とその証言に触れた人に、核兵器廃絶に向けた行動を始める自己変革を迫る意味が込められていた。そのため鎌田さんは、被爆体験を8・9につながる歴史とその後の生活の変遷を含めて総合的につかむよう求めてきた。 証言の会のこれからだが、鎌田さんが生きていたらどうするだろうか、といつも思う。
鎌田さんは「非核・不戦の21世紀という人類的課題を実現するために証言運動を」と言ってきた。会員400人の命が続く限り、証言の記録・出版活動は続けていきたい。そのためには新しい聴き手、若い会員を会に取り込んでいく必要がある。
幸い、証言運動が底流となって長崎にも新しい運動が芽生えている。いずれも証言の会のメンバーが深くかかわっている。これらの運動を鍛え、励ますような、質の高い証言運動を今後も目指したい。(談)
(2010年10月4日朝刊掲載)
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