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社説・コラム

被爆者団体「連携」探る時

■ヒロシマ平和メディアセンター事務局長 難波健治

 太平洋戦争の空襲被害者が国の法的救済を求めて動きを強めている。この夏、初の全国組織である全国空襲被害者連絡協議会(全国空襲連)が発足。国の「戦争被害受忍論」を打ち破り、国家補償の精神に基づく援護を実現する立法化運動を始めることを決めた。一方、結成当初から原爆被害への国家補償を求めてきた日本被団協も今春、現行の被爆者援護法を改正する要求案を発表した。時を同じくして国家補償の実現を目指す空襲と原爆の被害者。運動を広げていくには互いの連携が欠かせない。それは同時に、二つに分裂したままの広島県被団協など、被爆者組織のあり方にも問題を投げかける。


国家補償へ空襲連とデモ

東京での動き

 10月24日午後の東京・浅草。今にも雨が降りだしそうな肌寒さをついて「すべての戦争被害者と遺族に差別のない償いを」とのスローガンを掲げたデモ行進があった。観光客でにぎわう浅草寺(せんそうじ)の周囲を約1時間かけて歩いたのは、東京在住の被爆者と東京空襲犠牲者の遺族ら約110人だ。

 この「浅草ウオーク」は2006年に始まり、今年で5回目。東京空襲犠牲者遺族会と東京都原爆被害者団体協議会(東友会)、市民グループ「和・ピースリング」が共催して開いてきた。

 「今年は一味違った。去年まで原爆症認定の集団訴訟に力を注いだ被爆者が、今年は国家補償を実現する現行法改正を主張する。空襲被害者も全国組織をつくって援護法の制定を目指すという。緩やかな連携で始めたウオークが、今年は高いレベルでスクラムを組んだ感じだった」

 和・ピースリング事務局を務める山本唯人さん(38)はそう語る。

 東友会は全国空襲連の結成直後に団体加入を決めた。両団体は今後、互いが求める援護法実現に向け、国会議員や専門家との意見交換などでも協力し合う考えだ。


内外に開かれた組織 遠く

被爆地の思い

 しかし、こうした提携は、東京以外ではほとんど見られない。

 呉市の「呉戦災を記録する会」は全国空襲連に加入する22団体(1日現在)の一つ。会長の朝倉邦夫さん(74)は「呉の戦災被害者の実態はまだよくわからない。全国的に運動が進めば、実態調査も進み、被害者が名乗り出るきっかけにもなるだろう」と空襲連の今後の活動に期待する。

 被爆者との連携をめぐり、朝倉さんには苦い経験もある。1984年、空襲・戦災を記録する会全国連絡会議の第14回全国大会が呉で開かれた際、広島県の被爆者団体などに実行委への参加を打診したが、応じてもらえなかったと振り返る。

 在外被爆者の支援活動を広島で続ける豊永恵三郎さん(74)は20年ほど前、戦災傷害者の全国集会に参加した。会場にいた被爆者は自分自身だけだったという。

 ほかにも残念な思い出がある。日本に密入国した韓国人被爆者の孫振斗(ソンジンドゥ)さんに対し最高裁は78年、当時の原爆医療法をめぐり「国家補償的配慮が制度の根底にある」とする判決を出した。「この時、被爆者団体は政府に対して大きなアクションが起こせなかった。自分のこととして受けとめなかったのではないか」と豊永さん。

 「被爆者団体はもっと開かれた組織になるべきだ。韓国や米国、ブラジルの被爆者にも門戸を開いてほしい」


分裂半世紀 協調模索も―広島県

二つの被団協

 広島には同じ名の被爆者団体が二つある。「広島県原爆被害者団体協議会」といい、一つは坪井直理事長、もう一つは金子一士理事長が代表者だ。坪井被団協、金子被団協と呼んで区別している。

 もとは一体だった。原水爆禁止運動が原水協と原水禁に分かれたのを受け、64年に被爆者組織も分裂した。それから半世紀近い。

 「再統合よりも、被爆者の志を若い世代がどう引き継いでいくかを重視すべきだ」「できることから共同行動を積み重ねていけばよい」といった意見もある。

 一方、原爆放射線の研究者で被爆者の葉佐井博巳広島大名誉教授(79)は「しがらみがあるのなら、役員の世代交代を経て一緒になればいい」と考える。

 66年に発足した広島医療生協原爆被害者の会(約200人)は、どちらの県被団協にも所属していない。日本被団協の機関紙を直接購読し、韓国の被爆者組織と独自に提携するなどの活動を続ける。会長の丸屋博さん(85)は「二つの県被団協が一緒になったら入る、というのが私たちの考えだ」と話す。

 被爆地長崎でも、56年に設立された長崎原爆被災者協議会(被災協)から、まず長崎県被爆者手帳友の会が分かれ、さらに友の会から県被爆者手帳友愛会が生まれるという分裂の歴史がある。しかし今では、県原爆遺族会と県平和運動センター被爆者連絡協議会も加えた5団体が、多くの運動で活動をともにするようになっている。

 きっかけは3年前の国民保護計画の策定だったという。核兵器使用を前提にした避難計画づくりに被爆者たちは反発し、足並みをそろえて長崎市にストップをかけた。以後、核実験への抗議文書は連名で作り、隣県の原発のプルサーマル計画反対でも共闘している。

 長崎被災協の山田拓民事務局長(79)は「5団体が互いに組織の壁を感じることも少なくなり、違和感もなくなった」と話す。背景には被爆者団体だけでなく、多くの市民団体や原水爆禁止運動団体が一堂に会し、力を合わせて開く「核兵器廃絶地球市民集会ナガサキ」の10年来の積み重ねがあるという。


田中煕巳・日本被団協事務局長に聞く

一緒に「なる」より「する」 「世界被団協」実現なお壁

 被爆者組織のあり方や世界のヒバクシャとの連携について、日本被団協の田中煕巳事務局長(78)に聞いた。

 広島の二つの県被団協が何とか一つにならないかと、私も1985年ごろに広島で関係者と話したことがある。「一方は県内全域に組織がある。もう一方は広島市を中心に活動家が多く、行動力がある。二つが一緒になれば大きな力を発揮できる」と促した。

 しかし、分裂当時のいきさつを知る人は互いにこだわりがあり、解消は難しい。一方は「あの人たちは組織を出て行った。それを反省するのが先決だ」、もう一方は「向こうの方針が間違っていた。こっちが謝るのは筋違いだ」となる。

 しかし今後さらに被爆者が高齢化し、組織が先細りするのは否定しようがない。そこで私は、一緒に「なる」より、一緒に「する」ことをすすめたい。原爆症認定集団訴訟や行政への要請行動などはこれまでも一緒に進めてきた。一方、核実験への抗議の座り込みや核拡散防止条約(NPT)再検討会議への代表団派遣などは別々。日本被団協として、一緒にやっていけるよう配慮し、声をかけていきたい。

 在外被爆者の皆さんともこれまで、韓国や米国、ブラジルの被爆者組織と行動を共にしてきた。ただ日本被団協は日本にいる被爆者の組織。在外の人たちの加入には規約を変える必要がある。

 また、いろんな人が提唱してきた「世界被団協」構想に関連し、日本被団協も世界のヒバクシャの連帯を働きかけてきた。20年ほど前には国際的な署名運動を呼びかけ、共同で国連に要請した。

 ただ、海外のヒバクシャ団体は要求もさまざまで、必ずしも核兵器廃絶ではない場合もある。「世界被団協」の実現は容易ではない。ヒバクシャがまず個人で加入し、その上でグループをつくっていく方法ならうまくいくかもしれない。

 そうした動きを始めるには、若い力が必要だ。若い人たちが一緒に活動しようと思う組織にしていかなくてはならない。広島の被団協が一つになる必要はその点からも言えるのではないだろうか。

受忍論
 被爆も含めた戦争被害は「国民がひとしく受忍しなければならない」との考え方。1980年、厚生相(当時)の諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)が報告書に盛り込み、94年に制定した被爆者援護法も国家補償に基づく援護とは明記していない。年金などを国から受けてきた軍人や軍属の人を除き、空襲などによる一般戦災者に国家補償がない根拠ともなっている。

(2010年11月8日朝刊掲載)

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