行動こそ平和への道 2011年被爆者からのメッセージ
11年1月22日
■ヒロシマ平和メディアセンター事務局長 難波健治
核兵器のない世界への歩みは依然として予断を許さない状況にある。しかし、廃絶への道を確かなものにする推進力は、一人一人の市民の強い意志であり、「草の根」の力であることに変わりはない。原爆投下から66年となる2011年をどう迎えたのか。果敢に行動する被爆者2人のメッセージに耳を傾けたい。
大腸がんや急性腎炎のほか、病名が定まらない疾患も抱え、現在、9人の医師にかかっている。それでも体調が許す限り、内外で原爆を語り、自分史の執筆に励みたい。
女学校3年で14歳の時、広島市千田町(現中区)の広島貯金支局で動員中に被爆した。全身に裂傷、頭に大けがをした。弟は亡くなった。親が働けず、寝るところや食べるものにも困る生活が続いた。
16歳で働き始めた。高熱と下痢に悩まされ、正体不明の病気に苦しんだ。職場を東京に移し、専門医のもとで闘病を続けた。
原爆のことを話したり書いたりできるようになったのは、30年以上たってからである。
30歳で結婚。3人の子に恵まれた。40代に再び病状が悪化し「余命半年」と告げられた。幼い子へ何か残したい。つらい時や悲しい時に「お母さんが励ましてくれている」と感じられるものをと考え、童謡を作った。
鎌倉(神奈川県)に住んでいたころ、横須賀に核兵器積載疑惑の米原子力潜水艦が入港した。16歳だった次男が抗議の座り込みに行くという。ぜんそく持ちで、前夜も発作を起こしていた。
「10年待ってちょうだい。その時、あなたが反核平和主義者なら全力で応援するわ。今は健康になることに専念して」
「大人が何もしないから僕たちがする。お母さんは被爆者だろ。生活が大変なのは分かるよ。でも、新聞への投書とかできるでしょう」
私にできることは何か。机に向かうと、あの日がよみがえった。
「眠ったら死ぬ」と医師は言った。職場の女性が母のように付き添ってくれた。夜は、燃えさかる火の中で年上の少年と過ごした。
詩を作った。書き終えると白々と夜が明けた。息子の弁当の下に詩を置いた。
その日を境に、背負っていた重い鉛のようなものが薄れ、少しずつ原爆に触れることができるようになった。
被爆後の広島の夕焼けは痛いほどに美しかった。空が暮色に染まり始めるとカラスの大群がやってくる。降り立ち、がれきの中に横たわる遺体をついばんだ。その中に、遊び仲間だった少女もいた。
人間の生命のはかなさ、強さ、崇高さ。みじんの尊厳もなくついえさせられた無数の命の一方で、かろうじて生き残った人たちの生死を超えた助け合い。そして、やりきれない不条理の数々…。
時が移り、心の重しがとれていったとはいえ、それでも私は、他者と分かち合えない被爆の痛みを胸の奥深く抱いたまま、土にかえるつもりだった。
60歳になり、人生を振り返った。これからは自分の人生を生きてみたい。戦争で勉強らしい勉強ができなかった。学びたいことが山ほどあった。英語を選んだ。一人で海外を歩けるようにと。
アフリカや中南米、アジアで厳しい生活にさらされている人々に接し、人間の幸せとは何か、一緒に考えてみたいと思った。
ニュージーランドを訪れた時のこと。
学校で17歳の少年から「原爆であなたの哲学は変わりましたか」と質問された。「つらい体験だった。でも、人間の素晴らしさを見ることもできた」と答えた。翌日、彼から感想文が届いた。「あなたのように『人間の素晴らしさ』を見つめて生きていきます」と。
ある家庭では、親と娘が私を抱きしめて泣いた。その時、原爆の生き残りとは何であるかを実感した。言葉は十分通じなくても大丈夫。存在するだけで反核を訴えられると。
作家はこう言った。「あなたは話さなければいけない。書かなければいけない。私たちは、被爆者の話をつなぎ合わせることによってでしか原爆を知ることができない」
お金をため、毎年のように海外に出かけた。年に8、9カ国を回ったこともある。
日本は恵まれた国。なのに人々はなぜ、独自の国づくりをしないのだろう。「核の傘」にしがみつく政府、民意が尊重されない沖縄の基地の現実。深いところで、まだ戦争は終わっていない。
原爆は、日本にふさわしい国づくりをするきっかけになったのに…。
これまでに詩集やエッセーなどを10冊近く書いた。この春から順次、被爆体験と自分史、詩集、海外公演記録などを出版する。連日の医者通いだが、原爆で命を失った何十万の人たちの魂が、私を後押ししてくれている。
はしづめ・ぶん氏
詩人。本名橋爪文子。広島市中区出身。60歳を過ぎてから世界を平和行脚している。詩集に「昆虫になった少年」、著書に「不思議な国トルコ」など。
被爆者であると自覚し、行動を始めたのは6年前。地元の「豊平原爆被爆者の会」の会長を引き継いでからのことだ。
それまで原爆のことは、母親から体験を聞く程度。行動らしい行動は何もしていなかった。会社勤めの合間を縫って、PTAや地域のお世話などに手を取られていた。
そんな私が昨年5月に渡米した。核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け、日本被団協が派遣した被爆者代表団に加わった。
ニューヨークの中学と高校で、あの日の広島で何が起きたかを語り、生徒から確かな手応えを受け取った。
だが私自身、当時3歳。記憶はおぼろだ。亡き父からもっと聞きだしておけばよかった、と痛感した。
私は太平洋戦争が始まって3カ月後、東京・板橋で生まれた。広島県吉坂村(現北広島町)出身の父は化学工場で働いていた。 1945年3月10日、東京の下町は空襲で焦土と化した。両親は私と1歳の弟とともに広島市の北にある飯室村(現安佐北区)に疎開した。父は国鉄広島機関区で働いた。
自宅前で遊んでいたらピカッと光った。午後になると、たくさんの人がぞろぞろと北へ向かって歩いた。
母は帰ってこない父を捜すため、私と弟を連れて広島へ出た。埼玉出身で、東京から疎開して間もない母が、地理の分からぬ焼け野原のどこをどう歩いたのか。疲れ果てたことと思う。
父は広島駅(現南区)地下で作業着に着替えていて大音響を聞いたという。2日後、飯室に帰ってきた。「焼けとったよのう」と答えるだけで、原爆を語りたがらない人だった。だが、胸にやけどの痕があった。
戦後、父の実家がある吉坂村に移住した。土蔵に住み、山から流れてくる水を飲んだ。風呂はなく、たらいのお湯で行水した。
両親は農作業や土木工事に出かけた。食事作りは私の担当だった。ジャガイモとタマネギを煮てしょうゆで味を付けると、母はいつも、おいしいとほめてくれた。
私は体が弱かった。小学5年の時、高熱に浮かされ、4カ月ほど学校を休んだ。じっとしていても息苦しく頭が痛い。私の熱を測った母が、枕元で泣いていたのを覚えている。
「米国製の薬がある。打ちますか」。医師に聞かれて母は「お願いします」と即答した。少々の値段じゃなかったらしい。おかげで元気を取り戻した。
昨春のニューヨークでは、佐々木禎子さんの兄である雅弘さん親子に会った。その時に強く感じた。あの薬がなかったら、母がいなかったら、私は禎子さんと同じ運命をたどっていたかもしれない。
これから先、生かされた命を平和運動にささげたい。私たちはまだまだ行動しなければならない。核兵器の恐ろしさを世界の人たちに実感してもらえる仕組みが必要だ。
若い人たちが平和活動に取り組んでいる姿は、私たちにとって大きな希望だ。それをより大きく輝かせるため、私は語り続けたい。
みまき・としゆき氏
広島県被団協(坪井直理事長)理事。日本被団協全国理事や北広島町原爆被害者の会会長、豊平原爆被爆者の会会長も務める。北広島町議。
(2011年1月17日朝刊掲載)
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核兵器のない世界への歩みは依然として予断を許さない状況にある。しかし、廃絶への道を確かなものにする推進力は、一人一人の市民の強い意志であり、「草の根」の力であることに変わりはない。原爆投下から66年となる2011年をどう迎えたのか。果敢に行動する被爆者2人のメッセージに耳を傾けたい。
存在が反核訴える力に 闘病生活の中 証言継続
橋爪文さん(80)=東京都町田市
大腸がんや急性腎炎のほか、病名が定まらない疾患も抱え、現在、9人の医師にかかっている。それでも体調が許す限り、内外で原爆を語り、自分史の執筆に励みたい。
女学校3年で14歳の時、広島市千田町(現中区)の広島貯金支局で動員中に被爆した。全身に裂傷、頭に大けがをした。弟は亡くなった。親が働けず、寝るところや食べるものにも困る生活が続いた。
16歳で働き始めた。高熱と下痢に悩まされ、正体不明の病気に苦しんだ。職場を東京に移し、専門医のもとで闘病を続けた。
原爆のことを話したり書いたりできるようになったのは、30年以上たってからである。
30歳で結婚。3人の子に恵まれた。40代に再び病状が悪化し「余命半年」と告げられた。幼い子へ何か残したい。つらい時や悲しい時に「お母さんが励ましてくれている」と感じられるものをと考え、童謡を作った。
あの日の記憶 詩に
鎌倉(神奈川県)に住んでいたころ、横須賀に核兵器積載疑惑の米原子力潜水艦が入港した。16歳だった次男が抗議の座り込みに行くという。ぜんそく持ちで、前夜も発作を起こしていた。
「10年待ってちょうだい。その時、あなたが反核平和主義者なら全力で応援するわ。今は健康になることに専念して」
「大人が何もしないから僕たちがする。お母さんは被爆者だろ。生活が大変なのは分かるよ。でも、新聞への投書とかできるでしょう」
私にできることは何か。机に向かうと、あの日がよみがえった。
「眠ったら死ぬ」と医師は言った。職場の女性が母のように付き添ってくれた。夜は、燃えさかる火の中で年上の少年と過ごした。
詩を作った。書き終えると白々と夜が明けた。息子の弁当の下に詩を置いた。
その日を境に、背負っていた重い鉛のようなものが薄れ、少しずつ原爆に触れることができるようになった。
被爆後の広島の夕焼けは痛いほどに美しかった。空が暮色に染まり始めるとカラスの大群がやってくる。降り立ち、がれきの中に横たわる遺体をついばんだ。その中に、遊び仲間だった少女もいた。
人間の生命のはかなさ、強さ、崇高さ。みじんの尊厳もなくついえさせられた無数の命の一方で、かろうじて生き残った人たちの生死を超えた助け合い。そして、やりきれない不条理の数々…。
時が移り、心の重しがとれていったとはいえ、それでも私は、他者と分かち合えない被爆の痛みを胸の奥深く抱いたまま、土にかえるつもりだった。
英語学び世界歩く
60歳になり、人生を振り返った。これからは自分の人生を生きてみたい。戦争で勉強らしい勉強ができなかった。学びたいことが山ほどあった。英語を選んだ。一人で海外を歩けるようにと。
アフリカや中南米、アジアで厳しい生活にさらされている人々に接し、人間の幸せとは何か、一緒に考えてみたいと思った。
ニュージーランドを訪れた時のこと。
学校で17歳の少年から「原爆であなたの哲学は変わりましたか」と質問された。「つらい体験だった。でも、人間の素晴らしさを見ることもできた」と答えた。翌日、彼から感想文が届いた。「あなたのように『人間の素晴らしさ』を見つめて生きていきます」と。
ある家庭では、親と娘が私を抱きしめて泣いた。その時、原爆の生き残りとは何であるかを実感した。言葉は十分通じなくても大丈夫。存在するだけで反核を訴えられると。
作家はこう言った。「あなたは話さなければいけない。書かなければいけない。私たちは、被爆者の話をつなぎ合わせることによってでしか原爆を知ることができない」
お金をため、毎年のように海外に出かけた。年に8、9カ国を回ったこともある。
日本は恵まれた国。なのに人々はなぜ、独自の国づくりをしないのだろう。「核の傘」にしがみつく政府、民意が尊重されない沖縄の基地の現実。深いところで、まだ戦争は終わっていない。
原爆は、日本にふさわしい国づくりをするきっかけになったのに…。
これまでに詩集やエッセーなどを10冊近く書いた。この春から順次、被爆体験と自分史、詩集、海外公演記録などを出版する。連日の医者通いだが、原爆で命を失った何十万の人たちの魂が、私を後押ししてくれている。
はしづめ・ぶん氏
詩人。本名橋爪文子。広島市中区出身。60歳を過ぎてから世界を平和行脚している。詩集に「昆虫になった少年」、著書に「不思議な国トルコ」など。
生かされた命ささげる 若者の参加 大きな希望
箕牧智之さん(68)=広島県北広島町
被爆者であると自覚し、行動を始めたのは6年前。地元の「豊平原爆被爆者の会」の会長を引き継いでからのことだ。
それまで原爆のことは、母親から体験を聞く程度。行動らしい行動は何もしていなかった。会社勤めの合間を縫って、PTAや地域のお世話などに手を取られていた。
そんな私が昨年5月に渡米した。核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向け、日本被団協が派遣した被爆者代表団に加わった。
ニューヨークの中学と高校で、あの日の広島で何が起きたかを語り、生徒から確かな手応えを受け取った。
だが私自身、当時3歳。記憶はおぼろだ。亡き父からもっと聞きだしておけばよかった、と痛感した。
私は太平洋戦争が始まって3カ月後、東京・板橋で生まれた。広島県吉坂村(現北広島町)出身の父は化学工場で働いていた。 1945年3月10日、東京の下町は空襲で焦土と化した。両親は私と1歳の弟とともに広島市の北にある飯室村(現安佐北区)に疎開した。父は国鉄広島機関区で働いた。
自宅前で遊んでいたらピカッと光った。午後になると、たくさんの人がぞろぞろと北へ向かって歩いた。
母は帰ってこない父を捜すため、私と弟を連れて広島へ出た。埼玉出身で、東京から疎開して間もない母が、地理の分からぬ焼け野原のどこをどう歩いたのか。疲れ果てたことと思う。
父は広島駅(現南区)地下で作業着に着替えていて大音響を聞いたという。2日後、飯室に帰ってきた。「焼けとったよのう」と答えるだけで、原爆を語りたがらない人だった。だが、胸にやけどの痕があった。
戦後、父の実家がある吉坂村に移住した。土蔵に住み、山から流れてくる水を飲んだ。風呂はなく、たらいのお湯で行水した。
両親は農作業や土木工事に出かけた。食事作りは私の担当だった。ジャガイモとタマネギを煮てしょうゆで味を付けると、母はいつも、おいしいとほめてくれた。
私は体が弱かった。小学5年の時、高熱に浮かされ、4カ月ほど学校を休んだ。じっとしていても息苦しく頭が痛い。私の熱を測った母が、枕元で泣いていたのを覚えている。
「米国製の薬がある。打ちますか」。医師に聞かれて母は「お願いします」と即答した。少々の値段じゃなかったらしい。おかげで元気を取り戻した。
昨春のニューヨークでは、佐々木禎子さんの兄である雅弘さん親子に会った。その時に強く感じた。あの薬がなかったら、母がいなかったら、私は禎子さんと同じ運命をたどっていたかもしれない。
これから先、生かされた命を平和運動にささげたい。私たちはまだまだ行動しなければならない。核兵器の恐ろしさを世界の人たちに実感してもらえる仕組みが必要だ。
若い人たちが平和活動に取り組んでいる姿は、私たちにとって大きな希望だ。それをより大きく輝かせるため、私は語り続けたい。
みまき・としゆき氏
広島県被団協(坪井直理事長)理事。日本被団協全国理事や北広島町原爆被害者の会会長、豊平原爆被爆者の会会長も務める。北広島町議。
(2011年1月17日朝刊掲載)
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