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社説・コラム

解明続くビキニ事件

■ヒロシマ平和メディアセンター事務局長 難波健治

 1954年3月1日。太平洋のビキニ環礁で米国が「ブラボー」と名付けた核実験をした。半月後、日本のマグロ漁船第五福竜丸の被曝(ひばく)が明らかになり、9月には無線長久保山愛吉さん(当時40歳)が亡くなった。それから57年。「ビキニ事件」と呼ばれるこの核実験に、あらためて光が当てられようとしている。事件の背後にある延べ千隻の日本漁船を26年間追いかけてきた高知県太平洋核実験被災支援センター事務局長の山下正寿さん(66)、核実験場になったマーシャル諸島の現状に詳しい三重大研究員の竹峰誠一郎さん(34)に、今この事件が投げかける意味について聞いた。


環境破壊 地球規模か

高知県太平洋核実験被災支援センター事務局長 山下正寿さん

 ビキニ事件とは過去の出来事だ、と思っている人が多い。それは事件の大いなる矮小(わいしょう)化だ。

 当時の政府資料を見ると、被曝マグロを廃棄した日本漁船は延べ992隻もいた。放射性降下物(死の灰)を浴びてもマグロを廃棄しなかった14隻を加えると、千隻を超える。第五福竜丸だけは被災直後、危険を感じて焼津港に直行し、乗組員は急性放射線障害と診断された。しかし、その他の被災漁船は水爆実験に遭遇したことさえ知らされず、現地で操業を続けたのだ。

 この時、米国がビキニ環礁とエニウェトク環礁で行った核実験は、3月1日から5月14日までに計6回。「キャッスル作戦」と呼ばれている。その破壊力は3月1日のブラボー爆弾だけでも、広島原爆の千倍。実験の回数が重なるほど大気や海水の汚染は深刻な状態になっていた。

政治決着で封印

 ところが、操業を続けた漁船員は、放射能雨のスコールで体を洗い、米をといで食器を洗った。汚染魚を食べて体内被曝した可能性がある。

 これらの船は日本に帰港後、計486トンの汚染マグロを廃棄させられた。船員たちは「頭を洗っておけ」と注意されたくらいで、事実上放置された。日本政府は米国の主張を受け入れ、マグロの汚染調査を年末で打ち切った。翌1955年1月には、米国からの慰謝料200万ドル(7億2千万円)の支払いで、事件にかかわる全ての問題は解決済みとなった。「政治決着」による事件の封印である。

 これまでの調査で、被災した船員にはがんや心臓発作などで亡くなった人が多く、生存者も体調不良が目立っている。

米国にまで拡散

 昨年春、私たちは核兵器開発を担当する米エネルギー省のホームページで、「キャッスル作戦」に関する放射性降下物の新資料を発見した。世界122カ所で1954年3月から6月まで、毎日同時刻に6回の爆発による降灰量を測定していた。1平方フィート(約0.09平方メートル)の粘着フィルム上で1分間に崩壊する原子の数を表したものだ。米軍基地のある三沢、立川、嘉手納、喜界島と広島、長崎の原爆傷害調査委員会(ABCC)にも観測点を設置していた。

 死の灰は4カ月の間にマーシャル諸島から東西に広がった。東は米国、メキシコにまで達し、米国には日本の5倍の量が降っていた。等高線のような「放射能等値線」を記した地図に、東京都が1954年に作った「船体に放射能のあった東京入港船」の操業地点を重ねると、日本漁船の被曝の事実は明らかだ。

 キャッスル作戦は史上最大の環境汚染をもたらしたのではないか。核兵器の恐ろしさという点でも、地球汚染という面でも、ビキニ事件はまだ解明し尽くされていない。

やました・まさとし氏 
 1945年生まれ。元高校教諭。高知県の「幡多(はた)高校生ゼミナール」を率いて地域の現代史調査に取り組んでいた85年に、ビキニ事件で被災したマグロ漁船員に遭遇。以後、被災船の追跡調査を続けている。


ヒバクシャ 隠された

三重大研究員 竹峰誠一郎さん

 マーシャル諸島は1946年から1958年まで米国の核実験場になった。ビキニ環礁で23回、エニウェトク環礁で44回、計67回の原水爆実験が行われた。TNT火薬に換算した爆発エネルギーは全部で108メガトン。広島原爆に換算すると、実に7千発以上の破壊力である。この実験によってどれほどの放射性物質が大気中に拡散されたのだろうか。

 米国は1954年のブラボー実験について、ビキニとエニウェトク、ロンゲラップ、ウトリックの4地域を核被災地と認めた。1億5千万ドルを支払い、「問題はすべて完全決着した」とした。

 だからこそ、マーシャルで核実験の影響を調べようとすれば、四つの地域以外に着目する必要がある。ブラボーだけでなく、全ての実験に目を配らなければならない。

共に暮らし調査

 私は1998年以来、マーシャル諸島を7回訪れている。核実験が住民の暮らしに与えた影響を調べるためだ。日本では「唯一の被爆国」とか「長崎を最後の被爆地に」といった言葉によく出合うが、実際にはナガサキ以後も被曝地は生み出されてきた。私は米国の言う「核被災地」から外れた島を訪ね、生活を共にしながら話を聞いた。そこにはヒバクシャがいた。

 その後、ある公文書が見つかった。マーシャル諸島の核実験で「有意な放射性降下物」が達した可能性のある地域を記入した文書である。1973年6月23日付で、作成者は分からない。エネルギー省に保管されていた。

 文書には、米国が認めた4地域とともに、アイルック、リキエップ、ウォット、クワジェリンなどの地域名が並んでいた。あわせて14地域が中レベル以上の放射性降下物を浴びたと、読み取れる。1952年と1958年の核実験では隣国ミクロネシア連邦の中心都市ポナペまで死の灰が達した可能性にも触れていた。

 これらは、米国が認めた地域以外にも、放射線被曝の後遺症に苦しむヒバクシャが「隠れている」ことを示している。

劣化ウラン弾も

 1959年から、マーシャルで核実験は行われていない。しかし、クワジェリンには米国のミサイル実験場がある。61年に大陸間弾道ミサイルの着弾地点になってからは、カリフォルニア州バンデンバーグ空軍基地から約8千キロ離れたクワジョリンのラグーン(環状につながる島々の内海)をめがけミサイルが撃ち込まれた。的が外れ、近くの島に着弾することもあった。

 1982年7月1日付のハワイ紙や、日本人ジャーナリストの豊崎博光氏によると、劣化ウラン弾を使ったミサイル実験が行われたこともある。

 私たちはグローバルヒバクシャというレンズを通し、核被害の全体像をつかむ必要がある。核兵器廃絶をただスローガンとして叫ぶだけでなく、現実の政治課題として具体化しなければならない。

たけみね・せいいちろう氏
 1977生まれ。学生時代から、マーシャル諸島をフィールドに平和研究に取り組む。2004年、日本平和学会に分科会「グローバルヒバクシャ」を創設し、共同代表の一人。著書に「隠されたヒバクシャ」など。


広島の原爆なら1キロ圏内 沢田昭二・名古屋大名誉教授の話

 米国が1954年にマーシャル諸島で行ったキャッスル作戦に関する新資料によると、放射性降下物が崩壊して出した1平方フィート当たりの累積カウント数は、最も強い地域で毎分20万回以上となっている。その海域には、第五福竜丸を含む5隻の漁船がいた。さらに、その外側の崩壊数10万~20万回の海域では第二幸成丸など7隻が操業していた。

 その中から第二幸成丸など高知県の漁船3隻を選び、乗組員のがん死亡率を広島原爆の被爆者のがん死亡率と比較した。爆心地から1キロ以内の被爆者の年間がん死亡率は0.504%なのに対し、ビキニ被災者は0.615%、2.00%、0.650%にのぼった。統計精度が低いことを考慮に入れても、ビキニ被災者は、広島の爆心地から1キロほどと同程度以上の放射線被曝を受けたと思われる。

(2011年3月21日朝刊掲載)

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