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社説・コラム

福島第1原発 被災地を行く 「放射能」が奪った暮らし

■特別編集委員兼ヒロシマ平和メディアセンター長 田城明

 東京電力の福島第1原子力発電所事故は、発生から1カ月が過ぎても放射性物質の放出は収束せず、12日、史上最悪のチェルノブイリ原発事故と同じ「レベル7」に引き上げられた。空気や土壌、海水の放射能汚染の拡大は、農業や漁業などに深刻な影響を及ぼしている。原発から半径20キロ圏内の住民たちは、既に故郷を後にして各地で不自由な避難生活を余儀なくされている。目に見えない放射能汚染に、かけがえのない日常の暮らしを根底から奪われた人々の現実を現地に見た。


「計画的避難区域」 福島・飯舘村

牛の行く末 酪農家苦悩

 午後7時すぎ。福島県飯舘(いいたて)村の酪農家、原田貞則さん(55)と妻の公子さん(51)は、牛舎で乳牛にえさを与えていた。

 「こんな配合飼料では牛たちに申し訳ねえべ。いつもなら自家栽培の牧草に栄養価の高い濃厚飼料、ミネラルなどの栄養素を混ぜて、たっぷりえさを与えているから」。公子さんが済まなさそうに言った。「1カ月もこんな状態だから牛もやせて、毛のつやもすっかりなくなった」と、そばから貞則さんが言葉を継いだ。

 えさを与え終えても、牛たちは鳴き声を上げ続ける。悲しく聞こえるその鳴き声は、もっとえさが欲しいという訴えなのだ。

 「原発からの放射線のために搾乳は朝と夜の2回から、今は朝だけ。それもえさを減らして量をわずかにしている」。こう説明する貞則さんの口調に悔しさがにじむ。搾った原乳のうち約30リットルは、生まれて1、2カ月の黒毛和牛8頭に与え、残りは畑に捨てるという。

 福島第1原発から北西へ約40キロ。後背に600~900メートル級の山々が連なる飯舘村は、地形と風向きの関係で、福島県内で最も放射線レベルの高い地域となっている。村での観測初日となった3月15日。放射線量は1時間当たり44.70マイクロシーベルトと、周辺の自然放射線量の約560倍にもなった。サンプルで測定された村の原乳からは、基準値を超える放射性ヨウ素が検出され、即座に出荷停止となった。今でも5マイクロシーベルト前後の線量が続く。

 25頭の乳牛を飼う原田さん宅では、通常なら原乳の出荷量は1日約420キログラム。単価にしてほぼ4万円である。それが売れないとなると、えさ代など出費のみがかさむ。乳牛のほかに親の黒毛和牛15頭、生まれて間もない子牛を含め市場に出す予定の和牛15頭、さらに親牛のおなかには5頭が出産を待つ。

 「今年は雄ばかりを産んでくれた。競りにかけて先行投資している借金の支払いをしなさいということだと喜んでいたのに…」。公子さんは汚染のために値が下がることを心配する。

 「でも、もうそれどころではなくなったべ。1カ月以内に飯舘村から全員避難しろという方針が政府から出されたんだから」と、貞則さんは11日に枝野幸男官房長官が発表した「計画的避難」に触れた。

 結婚25年。2人が貞則さんの親から酪農を継いだときは、1千万円もの負債があった。借金の返済や2人の子を育てるために、早朝から夜遅くまで働き詰めの毎日。ここ10年は乳牛一筋から黒毛和牛を増やし、ようやく軌道に乗ってきたばかり。規模拡大に合わせて大型トラクターを新たに購入し、牛舎や堆肥舎も建てた。

 「村は地震で3日間ほど電気や水道がとまったけれど、ほとんど被害がなかった。その間は新聞もテレビもラジオもなかったので、津波の被害も原発の事故も知らなかった」と、2人は口をそろえる。それだけに、すぐにもいつもの仕事に戻れると考えていた。

 「それが、まさかこんな事態になるとは。チェルノブイリの事故なんて、これまで人ごとだと思っていたのに」と、貞則さんは肩を落とす。

 飯舘村の人口は6100人。1800世帯のうち、1200世帯は酪農をはじめ、稲作、野菜作りなど農業に従事する。ヨウ素やセシウムで土壌が汚染された土地では、農作物も牧草も作れない。一方で補償のめどは立たず、避難先もまだ決まらない。

 「自分たち農家に何の落ち度もないのに、なんでこんな目に遭わなければいけないんだべ」。公子さんはこう言ってやせ細った乳牛を見つめた。「夜中に外のトイレに行くのも我慢してる。人の気配を感じたらえさがほしいと鳴くから。安全とばかり言ってきた東電だの、原子力の保安院だの安全委員だのという人には、私らの気持ちは分からんだろう」

 牛たちを置いて避難することは餓死させることを意味する。愛情を注いできた牛たちを裏切るようなことはできない、と夫妻は強く思う。しかし、避難先のどこに受け入れてくれる場所があるのか。それを思うと、「もう先が見えない」というのが偽らざる現実である。

 「放射線は引かない津波のようなもんだべ。これからもっと強くなるかもしれない」。強い余震を体に感じながら、貞則さんが別れ際に言った言葉に返す言葉がなかった。


魚から放射性物質 茨城・平潟漁港

風評被害 収入途絶える

 飯舘村で取材した翌日、福島県境に接する茨城県北茨城市の平潟漁港を訪ねた。5トンほどの漁船約50隻が、小さな港に整然と係留されている。15キロ北のいわき市小名浜港で見た光景とは随分と違う。小名浜港には100トンを超す船が何隻も岸壁に打ち上げられたり、海に沈没しそうに傾いたりしていた。

 「3月11日の大地震の直後、平潟の漁師はみんな船を沖へ出した。51年前のチリ地震による津波の怖さを知っているからだ」。港のそばに住む漁師の鈴木隆志さん(62)が説明してくれた。「でも、船が助かっても放射能汚染で漁ができないんじゃどうしようもない」

 今はコウナゴ(イカナゴ)漁の最盛期。ところが約70キロ北に位置する福島第1原発から海に大量に放出された放射性廃液が親潮に乗って沿岸部を南下。平潟漁協が4月1日に捕獲したコウナゴから1キロ当たり4080ベクレルの放射性ヨウ素が検出された。ほかのコウナゴには放射性セシウムも含まれていたことが判明した。

 「放射能汚染がなかったヒラメやアンコウなども風評被害で値段は半値以下。これでは油代も出ない」と鈴木さんは嘆息する。

 福島県漁連と同じように、茨城県漁連も原発事故が収束し、海の汚染が止まり安全宣言が出せるまで操業を一斉に停止した。

 鈴木さんにとって海の放射能汚染は、二重苦、三重苦だという。漁船のほかに、10年前に8千万円をかけて購入した19トンの遊漁船があるからだ。「漁と同じように、釣り客が増えるのもこれからがシーズン。弟と息子2人、家族みんなで海にかけている。でも、原発事故が起きてから釣り客はキャンセル続き。予約は一切入らなくなった」

 収入は途絶えても、月額60万円余の遊漁船のローン支払いは待ってくれない。大津波で被害を受けた家の改修費や一部流された漁具も買いそろえなければならない。

 「われわれ漁民にとって、原発は何のプラスにもならない。ヨウ素131だとか言われてもピーンとこないけれど、放射能というと、みんな広島・長崎のことが頭にあるから危険だと感じる」。鈴木さんは、日焼けした顔をしかめて言った。

 「漁師は魚を取ってなんぼ。あと1カ月も陸(おか)に上がったままの状態が続けば、みんな悲鳴を上げますよ」。鈴木さんら漁師たちの早期操業がかなうかどうか、いまだ見通しは立っていない。


住民の避難先 埼玉・加須市

故郷に帰る日 見えず

 福島第1原発から10キロ圏内にある双葉町の住民約1400人が避難生活を送る埼玉県加須市の旧県立騎西高。廃校利用の各教室や体育館には、所狭しと布団などが並び、住民にとってはいかにも窮屈な生活空間である。

 校舎の裏手に回ると、そんな窮屈さから逃れるように座り込んで話に興じたり、たばこをくゆらせたりする人々が何人もいた。その一人、鉄工所経営者の高倉康次さん(62)は、しみじみと言った。

 「電源3法交付金とかで町には金が入るし、公民館なども新しいのが立った。自分らも原発のおかげでいろいろと仕事をさせてもらった。でも、絶対安全と聞かされてきた原発で、こんな事故が起きたら元も子もない」

 海岸から200メートルの所にあった高倉さんの自宅も工場も大津波でさらわれた。道路に出ていた人たちをトラックの荷台に乗せながら高台へ逃げるのがやっと。畑にいた妻(58)も車で逃げて助かったという。今は一緒に避難生活を続ける。

 「ここにいる者は、津波から逃れるために避難したのだから、2、3日もすれば帰れると思って出た。今ではもう、いつになったら故郷へ戻れるのか、だれも表だって話題にしない」

 双葉町の人口は約6900人。住民の約2割が加須市に避難するほかは、ほとんどが福島県内の避難所にいるという。

 「行方不明者も大勢いる。肉親にとっては顔を見ないといつまでたっても死んだとは思えないのが心情。放射能が強いからといって帰れないのはつらい」。退職するまでは高倉さんの鉄工所で働いていた栗田峰雄さん(71)がそばから言った。

 原発から3キロ。少し高台にある家は、地震で内部は壊れたが、十分住める状態にあるという。幸い家族3人は無事だった。「本当は明日にも帰りたい。帰れないのなら5年とか10年とか、早く期間を明確にしてほしい。このままでは、まるで生殺しみたいなもんだべ」。栗田さんの言葉に、周りの人たちも深くうなずいた。

 プライバシーがない上に、先の見えない生活が、避難住民たちの不安とストレスを高めていた。

(2011年4月18日朝刊掲載)

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