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社説・コラム

在韓被爆者 66年後の手帳取得 河井章子 写真が伝える徴用の実態

■日本語教師 河井章子

 日本語教師。1956年広島市生まれ。87~90年ソウルの延世大に留学。手帳取得など在韓被爆者の支援活動を続ける。千葉県流山市在住。

 韓国全羅南道(チョルラナムド)に住む朴洪圭(パクホンギュ)さん(83)は1945年8月6日、広島で被爆した。「玉藻(たまも)組」に徴用され、広島駅北側の軍人配給倉庫近くで防空壕(ごう)を掘っていた作業員の一人だった。しかし、証人が見つからず被爆者健康手帳を持っていなかった。そのことを「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の会報で4年前に知った。  「玉藻組」とは? 広島生まれの私も初めて接する社名だった。電話番号案内にも旧広島市街地図にも出ていない。平和記念公園にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、被爆者の手記や記録がそろえられ、検索もできると聞いた。広島に戻った際に訪れ、「玉藻組」と入力すると日本人遺族の手記が現れた。

「玉藻組」は実在

 「大手町の玉藻組広島支社で焼けていた父を収容した」とある。やはり「玉藻組」は実在していた。だが、それだけでは手帳を申請できない。その後、「玉藻組」創業者の名前をインターネットで見つけた。

 「高松市で土建業、玉藻組を興し」、戦後は西日本放送会長、参議院副議長を務めた平井太郎氏だった。これが、朴さんを徴用した「玉藻組」なのか、半信半疑だった。高松市に住む友人に連絡すると、伝記「にんげん平井太郎 偉大なるその生涯」(79年刊)が送られてきた。

 「昭和十七年頃(ごろ)、朝鮮の富平で造兵工廠(こうしょう)建設の仕事を入札。現地の人を何千人も使い…」。この会社に違いないと思った。昨年5月、朴さんに初めて連絡を取った。

 朴さんは脳卒中の後遺症で歩けないが、「玉藻組のことが分かるなら申請を頼みます」と答えた。韓国原爆被害者協会湖南(ホナム)支部の柳益善(ユーイクソン)支部長は、朴さんを何度も訪ねて詳しい話を聞き取ってくれた。

 「一人息子なので兵隊に取られぬよう早く結婚したが、1944年、徴用に取られてしまった」「釜山から下関を経て四国で下船。60人は広島、60人は九州と決められた」「広島に着いて初めは飛行場、次に広島駅北側の山で防空壕を掘った。夜勤明けで寝ていた時、原爆に遭った」

証人と同じ効力

 高齢とは思えぬ記憶力に、徴用された当時の写真を持っていた。朴さんの若い面差しに胸をつかれた。一方、腕章に写る「玉藻組」の文字に心が躍った。写真は手帳申請に当たり、証人と同等の効力を持つのだ。

 長く手掛かりがなかったのが、いろいろな力に後押しされて前進した。猛暑が続いた昨年7月、朴さんは娘さん夫婦に抱えられ全羅南道の村から高速道を東へ約4時間かけ、釜山の日本総領事館で手帳申請を果たした。

 さらに今年1月、戦時中の土建会社の受注工事一覧が見つかった。玉藻組の工事発注者は「広島師団経理部」だった。現場は香川、福岡、熊本県に及んでいた。そして2月、朴さんは、ついに被爆者の証しである手帳を取得したのである。

 しかし、朴さんが広島から遺骨で持ち帰った6人が被爆者に数えられることはない。朝鮮半島の多くの若者に労働を強いながら、彼らを放置して解散した「玉藻組」。被爆者、朴洪圭さんが証明した事実である。

(2011年4月22日朝刊掲載)

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