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社説・コラム

『潮流』 「3・11」後の平和宣言

■平和メディアセンター編集部長 西本雅実 

 広島市が8月6日に営む平和記念式典は1947年に始まる。

 初の公選で市長になった故浜井信三さんは、哲学者の天野貞祐(ていゆう)に平和宣言の文案を相談した。すると巻紙に書かれた難解な長文が届いたという。「全文を読んでいたらNHKラジオの中継に収まらん。それで浜井自ら筆をとったんです」。市長室職員だった藤本千万太(ちまた)さんから聞いた秘話である。

 被爆者でもあった浜井さんは当時42歳。米英占領軍の士官らが来賓として座る中「原子力をもって争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味する」と宣言した。

 ところが朝鮮戦争が起きた1950年は式典そのものが中止に追い込まれる。原爆死没者を慰霊する文言が盛り込まれるようになったのは占領明けの1952年からである。以来、史上初の惨禍への慰霊と訴えを柱とする宣言が続く。

 「核の傘」に頼らない安全保障を1997年に訴えたのは平岡敬さん。「市民に代わって発するんだが、市長の考えが前面に出すぎると個人の宣言になる。その案配が難しい」と語ったことがある。

 戦後未曽有の大震災と福島原発事故による核被害の収束は予断を許さない。3月11日後の、被爆地からの平和宣言は中身が問われるし、あらためて注目もされよう。

 今月就任した松井一実市長は「起草委員会みたいなものもいいかもしれない」と、被爆者や市民の意見を宣言に反映させる意向を記者会見で示した。

 浜井さんの著書「原爆市長」に初の平和宣言を顧みた一節がある。「私は読み進むうちに、だんだんと身が引きしまってくるのを覚えた(略)広島の一角に発する声は小さくとも、どうか、全世界の人々にとどけ」。市民の負託を受けた市長が練り上げるからこそ気迫がこもる、と思う。

(2011年4月29日朝刊掲載)

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