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社説・コラム

読み継がれる「原爆の子」 手記集 増刷重ね60年

■ヒロシマ平和メディアセンター事務局長 難波健治

 「広島の少年少女のうったえ」というサブタイトルをつけた手記集「原爆の子」(岩波書店)が、今年で発刊60年を迎えた。これまでに単行本で52刷、文庫本で10刷を数えるロングセラーである。編集したのは教育学者で広島大名誉教授だった長田新(おさだ・あらた)氏(1887~1961年)。13カ国の言語にも翻訳され、海外でも読まれ続けている。初版発刊から60年たったのを機に「原爆の子」がいま私たちに投げかけているものは何かを考えた。


悲劇の中に人間愛 平和教育の出発点に

 「原爆の子」には小中高大生105人の手記が載っている。原爆投下当時は、4歳から中学生くらいの年齢だった。

 本の冒頭で長田氏が4万字を超える「序」を書いている。文庫本だと67ページに及ぶ長大なものだ。手記集の出版にかける思いをしたためた。

「生のまま」提供

 原爆は人間の精神にどんな影響を与えたのか。教育学者としてそのことを知るために、あえて子どもたちに執筆を呼びかけた。学校を通して集まった手記を読んで、当初の考えが変わった。個人の研究資料として手元に置くより、世の人々に「生のまま」で提供すべきだ、と。  初版が出たのは、51年10月2日である。手記を集めたのは、その年の4月から6月にかけて。朝鮮半島で戦争が始まり、まだ1年もたたないころだ。

 当時、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の支配下にあった。プレスコード(検閲)もしかれていた。この本が対象になることは予想された。にもかかわらず出版したのは、なぜだろう。

 被爆当時、市内の中学校や女学校の生徒たちは勤労奉仕で中心部の建物疎開作業に従事していた。そんな彼らの最後は、痛ましい悲劇として今も語られている。その様子を手記は次のように伝えた。

 「先生は雛鳥(ひなどり)をいたわる母鳥のように両脇に教え子を抱き、生徒は恐れわななく雛鳥のように先生の脇下に頭を突っ込んでいます」(坂本節子さん)

 「せいがん寺の前の大きな水そうには、燃えてくる火から四人の生徒をかばい、先生が生徒におおいかぶさるようにして、五人いっしょに死んでおられた」(藤田真知子さん)

 長田氏は書く。「地獄のような瞬間にあっても、なおかつ生徒を救おうとして、ついに斃(たお)れたこれらの教師達の人間愛・教育愛をわれわれは見逃してはならない」

反響は全国から

 「原爆の子」が出版されると、全国から反響が届いた。それらをまとめて長田氏は、53年秋に「原爆の子にこたえて」(牧書店)を出版した。この年2月、広島では手記を書いた子どもたちが「原爆の子友の会」をつくった。関西では大阪大理学部の学生を中心に「原爆の子にこたえる」運動が始まった。

 「原爆の子」の映画化(52年新藤兼人監督「原爆の子」、53年関川秀雄監督「ひろしま」)では、広島市民や教師たちが果たした役割は大きかった。しかし、学校現場での「平和教育」は、まだ目に見えるような形では始まっていない。広島県原爆被爆教職員の会ができたのは69年である。その年に副読本「ひろしま 原爆をかんがえる(試案)」が同会などの手で発行され、巻頭の第1章には「原爆の子」の手記が並んだ。


体験継承へ思い強く 70歳過ぎた寄稿者

 7人の「原爆の子」に会った。いずれも70歳を過ぎていた。うち2人は原爆で両親を失い、孤児として生きた。小島純也さん(71)=東京都渋谷区=もその1人。父と祖父母を失った。母はすでに他界していたので遠縁の人に育てられた。

 「原爆の子」が世に出たことを20年前まで知らなかった。書いたのは覚えている。本になる3カ月前、雑誌「世界」に自分の手記が載った。先生から掲載誌を渡され、喜んで家に持ち帰った。

 「仏壇に供えた本はいつの間にか捨てられていた。手記の中で世話になっている人のことに触れず、僕は不幸だ、と書いたのが気に入らなかったんです」

 その後、本が出版され「原爆の子友の会」も結成された。案内状が届いているはずなのに一度も見ていない。中学卒業後、腕に職をつけると、逃げるように広島を離れた。

 そんな小島さんも今では「原爆の子」の手記を書いた人たちのグループ「きょう竹会」(早志百合子会長)とつながりができた。東日本大震災で生まれた孤児たちの将来にも思いをはせる小島さん。被爆証言をしに出かけることもある。

日常化する「死」

 広島市安佐南区に住む有重舜年(きよとし)さん(74)は「きょう竹会」が99年に出した手記集「原爆の子 その後」にも文章を寄せている。90年ごろに書いたものだ。

 「一面の焼け野原で死体を山積みにして焼いた。嫌な臭いだった。死が日常になっていた。母と姉の死より差し迫った空腹のつらさがあり、飢餓の恐怖が先にあった。この非人間的な世界が戦争というものだ。

 自分にも平和のためにできることがある。それは、日本国憲法の前文と9条を守ることだ。娘も憲法を知識としてでなく理解してほしい。これは、人類が悲惨な体験の上に得た知恵だということを」

 こんな文章を50代で書いた有重さん。70代半ばに達した今は、自らブログでせっせと思いを発信している。

 写真家の土田ヒロミさん(71)=東京都品川区=は76年から78年にかけ、「原爆の子」を訪ね歩いた。被爆30年を過ぎ、写真家としてヒロシマと向き合う義務を感じたからだ。手法として手記を書いた人の「今」をそのまま撮ろうと考えた。

 「原爆の子」には105人の手記のほか、「序」に多くの手記が部分的に紹介された。合わせて186人にのぼる。107人の住所が分かった。亡くなっていたり、取材拒否もあって、77人が応じてくれた。

生き抜いた自信

 さらに約30年後の2005年。土田さんは前回、取材を拒否された人も含め再訪した。

 2度目の出会いの印象を土田さんはこう語る。「60年間、闘いながら生きてきた、という自信が伝わってきた」。体験を語れるものなら語りたい、という意欲でもあった。前回の取材を拒否した人の中から、一転して取材に応じてくれる人も複数あった。

 私たちはあらためて「原爆の子」に光を当て、その後の「子」らの声にじっくり耳を傾ける必要があるのではないだろうか。

(2011年5月2日朝刊掲載)

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