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社説・コラム

『論』 被爆地と原子力 「平和利用」に向き合わず

■論説主幹 山城滋

 ヒロシマ、ナガサキの経験がある日本に、なぜこんなに多くの原発があるのか?

 福島第1原発の事故後、そう問い掛ける外国人がいた。虚を突かれたというか、素朴な疑問と片付けるわけにはいかない気がした。

 反核というとき、欧米では反原発を含めることが多い。それに対し被爆地や国内では、廃絶を訴える対象は専ら核兵器だった。

 原爆投下から66回目の夏が近づく。日本被団協は今年、国に「脱原発」を求める方針だ。広島、長崎両市長が平和宣言で原発問題にどう触れるかも注目される。

 フクシマに触発される被爆地。でも、これまでなぜ兵器でない核の問題に正面から向き合って来なかったのか。

 足元を見つめ直してみると、一時期だが被爆地が原発問題に直面したことがある。

広島市に原発計画

 広島市へ原発を建設する案が1955年1月、米下院で取りざたされた。提案したイエーツ議員は、世界初の原爆被災都市でこそ原子力の平和利用を実現させようと説いた。

 当時の浜井信三市長は、微量放射能の問題が残るとしながら、「死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う」と語った。核被害を受けながら、圧倒的威力の平和利用を前向きにとらえる発想が既にあったことが分かる。

 発足間もない原水禁広島協議会は反対声明を出す。「原子炉は原爆製造用に転化される懸念があり、放射性物質の人体に与える影響にも重大な懸念がある」と。

 イエーツ議員の提案は、当時の時代状況と密接に関係していた。

 米国のアイゼンハワー大統領が「アトムズ・フォー・ピース」演説を行い、各国に原子力の平和利用を呼びかけたのが1953年12月。友好国や非同盟国に技術支援することで、急ピッチで核開発を進めるソ連へ対抗する狙いだった。

 ところが翌年3月、ビキニ水爆実験の死の灰を第五福竜丸が浴びた。原水爆禁止の署名運動が広がり、反米感情が急速に高まった。

 イエーツ議員は、原爆投下への罪滅ぼしに加え、被爆地での平和利用に劇的効果を当て込んだのだろう。

 被爆者は後障害に苦しんでいた。市民の抵抗感は強く、構想は立ち消えになる。

 この時に提起された放射性物質への懸念が現実となったのが福島の事故だ。反対声明は本質をとらえていたが、当時、商業用原子炉は未稼働で情報も不十分。被爆地での論議は深まることはなかった。

 一方、原発は1954年以降、米国の支援を得ながら国策として強力に進められる。初の原子力予算がさしたる議論もなく国会を通過した。強引な進め方に科学者グループは危機感を抱く。「民主・自主・公開」という平和利用の3原則を主張し、原子力基本法に盛りこまれた。

 これらが忠実に守られていたら、フクシマの事態は避けられていたかもしれない。3原則はしかし、国民に安心感を与えるだけの見せかけの歯止めとなってしまった。

危険な側面に封印

 放射線の危険な側面は封印された。核の軍事利用と平和利用は別物という見方が世の中に定着していく。その延長線上に原発の安全神話が生まれたとも言えるだろう。

 夢のエネルギーというばら色のイメージを定着させる上でメディアの役割も大きかった。1955~57年に全国各地で開かれた原子力平和利用博覧会は大盛況だった。東京では読売新聞社、広島では県、市、中国新聞社などが主催した。

 そのころ、手塚治虫のSF漫画「鉄腕アトム」がすでに人気を集めていた。原子力で自在に動くロボットは子どもたちの夢をかき立てた。  被爆者も時流の例外ではなかった。1956年に日本被団協が結成され、中心メンバーだった森滝市郎さんは原子力の平和利用に期待する宣言文を書いた。「恥ずかしい空想を抱いていた」と後に振り返る。

絶対否定の提起も

 それから20年。森滝さんは「核は軍事利用であれ平和利用であれ人類の生存を否定する」と1975年の原水禁大会で演説した。今、あらためて注目される核絶対否定宣言だ。

 世界中を回り、ウラン採掘から核燃料再処理にいたるまで放射能の危険性が消えないと肌で感じた末の結論だった。原発から原爆材料のプルトニウムが生まれ、究極的な処理が未解決という問題も提起した。

 1994年に亡くなった森滝さんの主張は、被爆地では広がらなかった。賛否が割れる原発問題を持ち込めば運動が拡散する、との見方もあった。なにより国内でレベル7という重大な事故が起きるとは思いもしなかった。

 今、建屋が吹き飛んだ原発のプールにたまった使用済み核燃料を目の当たりにし、森滝さんの警告を思い起こす。

 平和利用と軍事利用。放射能の怖さを知りながら二つの間に橋を架ける想像力も努力も足りなかった。冒頭の問いへの答えになるだろうか。

(2011年6月19日朝刊掲載)

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