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社説・コラム

核をめぐる対話 「過去」の教訓生かされず

■平和メディアセンター編集部長 西本雅実

作家・大江健三郎さん/第五福竜丸元乗組員・大石又七さん

 作家大江健三郎さん(76)は、広島への原爆投下に始まる核時代の人間の生き方を表現してきた。第五福竜丸乗組員だった大石又七さん(77)は、米軍のビキニ水爆実験による被曝(ひばく)体験を語り継ぐ。その2人が初めて会い、「核」をめぐって対話を交わした。3月11日から続く福島第1原発事故は私たちに何を突きつけているのか。1945年の広島・長崎の体験、原水爆禁止運動を呼び起こした54年のビキニ事件の教訓は生かされてきたのか。対話の内容を伝える。


■ビキニ被曝

航海中「死の灰」浴びる 大石さん

 2人は、東京都江東区の夢の島公園にある都立第五福竜丸展示館(76年開館)で会った

 大江 大石さんを知ったのは57年前になります。1年浪人して大学に入ると正門前に大きな立て看板があった。ビキニ環礁で水素爆弾の実験が行われ、23人の漁民が被曝と書いてあった。資料をもらうと、大石又七という20歳の青年は、お母さんのために漁師となり被曝したとあった。僕も父を亡くして苦労したから共感をもった。第五福竜丸の航海への参加から話をうかがえますか。

 大石 私は終戦直後におやじを事故で亡くして、新制中学を2年でやめざるを得ず漁師になったんです。6人きょうだいの長男だし、働かなければ食べていけない。当時は(軍隊から)復員してきた人が大勢いて気が荒い。そういう中で仕事を覚え、ある程度一人前となった。カツオ漁から遠洋のマグロ漁でないと金にならない時期に入り、この船に乗り換えた。5航海目で被曝に遭うんです。

 木造140トン、全長約30メートル。第五福竜丸は静岡県焼津港から出港し、中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁の東方約160キロを航海中の1954年3月1日午前6時45分(現地時間)、米軍が「ブラボー爆弾」と呼んだ水爆実験により放射性降下物の「死の灰」を大量に浴びる。広島原爆の約千倍に匹敵する15メガトンの威力だった

 大石 まだ暗かった空に光がサァーと流れたんです。水平線の向こうから現れた光は3分くらい消えない。みんな声も出ず見ていた。船頭が「縄を揚げるぞ」と言い作業を始めると、海の底からゴォーと突き上げてくるような地鳴りがした。光が出てから7、8分ですか。音はその1回だけで後は何も聞こえない。その日の海は穏やかでしたから光と音が際立って印象に残りましたね。

 大江 被曝したことは「死の灰」が降り注いできてはっきりするわけですか。

 大石 全く分かりませんでした。(爆風で吹き上げられ放射能汚染されたサンゴ礁の)白い灰が落ちて来ること自体が、常識では考えられない。白い灰をかぶって熱が出ながらも、何だろうと時間が過ぎていった。「もし米軍の実験とかだったら、連れて行かれるから陸に帰っても黙ってる方がいい」と話し合ったんです。そういう情勢(米軍の日本占領が終わったのは2年前)でしたから。隠そうという気持ちでいました。

 (3月14日焼津に帰港し)やけどがひどく東大などが調べて核兵器による被曝だと発表された。もう出港できず、すぐ隔離された。「原子病になっているからうつる」。今でいう風評被害が町中に広がり、みんなからよけられて(同17日)全員が伝染病院に入れられた。新聞やラジオから盛んにニュースが流され、放射能という言葉を一般の人も覚えていったんです。


■発症、沈黙、証言

広島で学んだ被爆実態 大江さん

 大江 私は25歳で結婚して障害のある子どもが生まれた。彼と一緒に生きることが私の文学をつくりました。そういう中で(1963年)広島へ行きました。自らも被爆し、一生をかけて被爆者を治療し研究された重藤文夫先生(56~75年広島原爆病院長)に会い、励まされた。人生の後半の枠組みが出来上がったと今も思います。先生は、原爆という恐ろしい出来事を経験した人間が発する病状はすべて原爆に基づくと、言われました。

 無線長の久保山愛吉さんが亡くなられますね(被曝半年後に40歳で死去)。治療上の輸血に基づく肝炎であり別の治療をすれば死ぬことはなかったとした米軍側の報告書を、あなたは著書で批判されている。肝炎が重大な病気になったのは、被曝で全面的に傷ついたからであって被曝の犠牲だと書かれた。重藤先生の発言を思い出しますし、私は心から賛成するんです。23人のうちの何人が亡くなられたんでしょうか。

 大石 14人が現在までに亡くなりました。9人も肝臓障害を持ち私もがんの手術を(1993年に)してます。私は(1954年3月27日移送された国立東京第一病院で)久保山さんの隣にいたから医者もなすすべがない状態を見ているんです。被曝でいろんな病気が出てくる恐怖を感じ、自分も死ぬんだと意識した。ところが(1955年5月20日)全員が一度に退院となった。治ったのではなく日米の政治決着から退院させられたことを後で気づくわけです。

 乗組員23人が浴びた放射線量は致死量に近い2~6シーベルトとされる。放射能を含んだ雨は日本にも降り注ぎ、米軍が1954年に行った計6回の核実験で日本漁船856隻が被災し、汚染されたマグロは廃棄される。主婦の間から原水爆禁止の声が全国に広がっていった

 大江 苦しい闘病の後は東京に移り住み、クリーニングの仕事を始められます。

 大石 病気より差別と偏見の方が怖かった。私の地元は小さな町ですから。若かったから東京に出ようと決め、何の弟子でもいいから働くところを探してもらったら、クリーニングになった。当時はアイロンと一斗かまと洗い台があればできたんです。店を53年続けるんですが、東京に出たのはそういう経緯なんですよ。

 大江 ビキニのことは長い間話されず生きてこられた。それが、第五福竜丸が都民のごみ捨て場夢の島に放置されているのを聞き(1968年)仲間と見に来られる。NHKが(1983年)募集した投稿でビキニの体験を初めて書かれ、(翌年)中学生に話される。子どもたちにまず話されたのは、強さがあって静かな文章を書かれるあなたの訓練のためにもよかったと思います。

 大石 そこに至るまで仲間が次々と亡くなり、子どものことでもつらい思いをした(1960年第1子が死産)。理不尽な目に遭った半面、ビキニ事件はどんどん忘れられた。背後には核兵器という大きな問題があり、それが隠されたために自分たちの被害も隠されていることが分かってきた。怒りが湧き上がってきた。知ってもらう、伝えないといけないと年とともに変わっていった。言わなければ、また同じことが起こると思うようになったんです。


■福島原発事故

放射能の怖さを教えよ 大石さん

責任曖昧にせず究明を 大江さん

 大江 ビキニ被曝の衝撃から核兵器に反対する運動が盛り上がり、1955年に初めて原水爆禁止世界大会が広島で行われる。(東京・杉並公民館から1954年5月に始まった)3千万人もの禁止署名簿に私の署名もあります。一方その年に、わが国では原子力の平和利用を盛んに唱える政治家が現れた。原子力がなければ世の中の発展はあり得ないと言う人たちの動きが政治的、経済的に大きくなっていく。いわゆる原子力の平和利用が進行し、できあがった仕組みが今日まで続いている。原発を推し進めた政治家は、福島の事故の後も日本の産業のために必要だとしゃべっています。大石さんは沈黙の間も怒りを感じられたはずです。

 大石 原子力の平和利用ということで物とかお金とかに慣らされ、それで生活しないと幸せじゃない、という感覚が染みついた気がするんです。今、福島原発からの放射線量は何マイクロシーベルトだから大丈夫と専門家は盛んに言ってますよね。私たちのときもそうでした。本から拾い出した判断ですよ。実際はマーシャルの住民や私たちを見ても、そんな答えではない。何年もたってから発症している。

 日米両政府は1955年1月、米国が総額200万ドル(当時7億2千万円)の「慰謝料」を支払うことでビキニ事件を収め、11月に原子力協定を締結。1957年茨城県東海村で国内初の研究炉が運転を始め、1966年には商業原発が稼働して今の54基となっていく。

 マーシャル諸島・ロンゲラップ環礁の住民は米国の1957年の「安全宣言」で帰島したが、がん発症が相次ぎ1985年に他の島に再移住。汚染除去が続いている


 大石 結局ビキニ事件を政治決着して放射能の怖さを握りつぶしてしまったから今、見えない放射線で大騒ぎしている。教えてこなかった責任は一切言わず「風評被害」として押さえようとしている。専門家、政治家の言うことにも腹立たしく思っています。(被曝の)現実をきちっと教えないと、また、あちこちで同じことが繰り返されるんじゃないかと思います。

 私たちが少年だったころ戦争を指導した人たちは、責任があるのに取らなかったですよね。新憲法ができても大きな顔をした。福島の問題でも、原発を導入し推進した政治家は責任を取らない。私は我慢ならないんです。

 大江 償うことができないことをしてしまった人が責任は取らない。それを日本人の曖昧さと僕は言っているんです。大切なことを曖昧にして責任を問わない、話さない習慣がある。しかし今度こそ日本人が、なぜ福島の原発で大きな事故が起こったかということを根本的に、みんなに分かるように突き詰めて調査する。その結果を行動に示す。政府はみんなが納得すれば原発を廃止することが必要ではないかと考え、今そのことを書こうとしているんです。

 54基の原発を、増設しようとする14基をどうするかをはっきり考えなければ、また事故は起こりうる。数多くの人が苦しむ。一人の人間は数多くの人を殺すようなことをしてはいけない。それは根本的な倫理だと思います。自分がよく訳が分からない、分からない危険があると分かっているときに、人間はその道を選択してはいけない。それこそ子どもにも分かるように、専門家でない小説家にも納得できるよう、はっきり言う声がほしい。大石さんがなさっているのはそういうことだと考えます。

大石 小さなことですけどね。


■対話を終えて

 対話は、NHKEテレが3日午後10時から放送した「ETV特集」の収録に応じて行われた。核関連のスペシャル番組を手掛けてきたプロデューサーに声を掛けられ、立ち会った。休憩を挟んで約2時間20分。終了後、大江さんは、福島原発事故の直後にフランスのル・モンド紙から求められた論考で大石さんの名前を「又八」と誤ったことをわびた。大石さんは「宮本武蔵の幼友達ですね」と笑った。大石さんの著書「ビキニ事件の真実」(2003年刊)がハワイ大から6月に英訳出版された。フクシマからビキニ、ヒロシマ・ナガサキの意味があらためて問い直されようとしている。

おおいし・またしち
1934年静岡県生まれ。1954年のビキニ被曝で漁師をやめ翌年東京へ。クリーニング店を昨年末まで営む。1980年代半ば以降、第五福竜丸展示館で証言活動を続けるほか、「死の灰を背負って」(1991年刊)などを著す。東京都大田区在住。

おおえ・けんざぶろう
 1935年愛媛県生まれ。東京大在学中の1958年に芥川賞。「個人的な体験」「万延元年のフットボール」などの作品で1994年ノーベル文学賞。1965年に著した「ヒロシマ・ノート」は国内外で今も読み継がれている。東京都世田谷区在住。

(2011年7月4日朝刊掲載)

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