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社説・コラム

潮流 被爆作家の異議申し立て

■平和メディアセンター編集部長 西本雅実

 作家中山士朗さんから冊子をいただいた。渋沢栄一記念財団(東京)が発行する「青淵(せいえん)」7月号に一文を寄せ、原爆症の認定申請を却下された経緯をつづっている。

 広島一中3年の夏、建物疎開作業に動員され鶴見橋西詰めで被爆した。爆心地から1・5キロ。すさまじい熱線の痕跡が顔の左半分に残った。学校が再開すると登下校の道々、好奇の目にさらされる。校長室へ呼び出され、進駐軍兵士に「原爆症治療の参考資料として」上半身裸の写真を撮られた。

 この「怒りとも悲しみともつかぬ感情」を1968年「死の影」でリアルに描いた。自身や級友たちのその後を著した93年の「原爆亭折ふし」は日本エッセイスト・クラブ賞に。「死の影」は、今年6月に集英社から出た「コレクション戦争と文学 ヒロシマ・ナガサキ」に原民喜や林京子の作品とともに収められている。

 「青淵」が届いた日、原爆症認定却下の処分取り消しを求めた集団訴訟で、東京地裁は、爆心地から2キロ以遠で被爆した人の心筋梗塞も認めた。放射線被曝(ひばく)と疾病との関連を総合的に判断する必要性を指摘した。

 福島第1原発事故による新たな核被害者についても、政府の取るべき姿勢を問い掛けた判決ともいえる。

 中山さんは心臓にペースメーカーを埋め込む。集団訴訟で敗訴し続けた国が3年前、認定基準を緩和したのを機に自らも申請。しかし退けられ、昨年8月に厚生労働省へ異議申立書を提出した。

 一文のタイトルは「終わりし時の証に」とあった。「最後の病名を原爆症とし、被爆者として去っていくことの証を墓碑銘に刻みたいのである」。認定にあえてこだわる理由をそう記している。

 申し立てへの回答はまだない。

(2011年7月8日朝刊掲載)

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