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社説・コラム

『論』 原子力村のある被爆者

■論説委員 江種則貴

「脱核兵器」原点忘れるな

 原爆を落とされた被爆国が、原子力の平和利用を進める意味合いとは、いったい何だろうか。

 福島の原発事故以来、17年前をよく思いだす。広島市中区出身の森一久さんがぽろぽろと涙を流した日のことだ。

 森さんは産業界や研究機関などが1956年に設けた日本原子力産業会議(原産、現日本原子力産業協会)に事務方として入った。敗戦国が国を挙げて平和利用に乗り出したころ。以来、84歳で昨年亡くなるまで一貫して「原子力村のご意見番」の務めを果たした人だった。

古里で原産の大会

 その原産が広島の地で年次大会を開いたのは94年。当時、専務理事だった森さんにインタビューした。地元の反原発団体からは「原発推進のお墨付きに被爆地を利用するのはもってのほか」と開催反対の声が上がっていた。

 大学で湯川秀樹博士に学んだ森さん。論理的で歯切れのいい答えが続いた。ところが原爆の話題で途端に言葉が詰まる。おえつが漏れた。

 父親は骨だけで帰ってきた。母親の行方は今も知れない。自らも爆心地から1.1キロで放射線を浴び、半年近く寝込んだ。

 被爆体験を他人に話したことは、ほとんどなかったという。

 「小手先の方便で原子力利用が進められるとは考えていない。誰もが犠牲にならないよう、きちんと安全を確立しなければならない」  平和利用を間違いなく進めるにはまず、軍事利用を一掃することが大前提。その上で科学技術を駆使し、人類の幸福のために原子力を制御する―。森さんが語ったのは原発推進側の使命感だった。

 森さんはこの時、核拡散防止条約(NPT)について「核兵器を禁止する条約ではない」と断言した。

 NPTの無期限延長が決まる前年だった。核拡散をある程度食い止めてきたとされるNPTだが、大国の核兵器保有を認める不平等条約との批判は今もつきまとう。そこを突いた森さんの言葉は、平和利用のためとはいえ、新鮮に響いた。

 森さんは後に、原発関係者に「ヒロシマの心」を理解してもらおうとしたのだと、古里での大会開催の真の目的を明かしている。

脱原発だけでなく

 そして今回、核兵器廃絶は実現しないうちに、福島の原発から放射能が飛び散った。

 日本被団協は運動方針に「脱原発」を掲げた。核の惨禍を身をもって体験した被爆者が、原発の危険性に目を向けるのは当然であろう。  その脱原発は菅直人首相も口にした。「個人的な思い」と釈明した点には首をひねるが、多様な自然エネルギーを活用しようとする方向は間違っていないだろう。

 気がかりなのは政府から「脱核兵器」の言葉が一向に聞こえてこないことだ。米国の「核の傘」に安全保障を委ねる被爆国。平和利用の将来を考え直すというなら、軍事利用の行く末についても踏み込んだ発言があってしかるべきではないか。  折しも核兵器廃絶の国際機運はしぼみかかっている。被爆地としていま一度、森さんの言う原点の訴えに力を注ぎたい。「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ」と。

(2011年7月17日朝刊掲載)

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