×

社説・コラム

コラム 視点『碑文の言葉 心に刻み、核文明社会からの脱却を』

■センター長 田城 明

 職場から近い広島市の平和記念公園は、ぶらりと歩くときの散策コースだ。しばしば原爆慰霊碑の前に立ち止まり、慰霊碑に刻まれた碑文と向き合う。

 「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」

 碑文は、碑の前に立つ一人一人が、原爆犠牲者に対して立てる誓いである。私にはそのための働きをしているかどうかを自問する場でもある。

 6月初旬、スペイン・バルセロナであった文学賞授賞式に出席した作家の村上春樹さん。記念スピーチで彼は碑文を紹介し、「我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません」と言った。福島第1原発事故による放射能汚染や、地震国の狭い日本に世界で3番目に多い原発があることにも触れ、「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」とも述べた。

 広島・長崎の原爆体験によって日本人に植え付けられた核アレルギー。村上さんは、その核アレルギーを「妥協することなく持ち続ける」ことで、「核を使わないエネルギー開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだった」と訴えた。

 核兵器も原発も、同じ危険な核物質を利用している点では変わらない。村上さんの認識には、軍事利用も平和利用も「同根である」との目が働いている。

 しかし、アイゼンハワー米大統領が国連で「Atoms For Peace(平和のための原子力)」(1953年)を唱え、日本が原発導入に動きだした1950年代半ばの日本人の「核」意識は違っていた。放射線の人体への影響を身をもって知る多くの被爆者も核物理学者らも、核の平和利用を人類の未来を約束する「夢のエネルギー」として肯定的に受け止めた。1954年のビキニ米水爆実験による日本人被災と捕獲した汚染マグロの大量投棄は、原水爆禁止運動が全国規模で起きる契機とはなったが、原発の導入反対には至らなかった。

 敗戦からの経済復興と科学技術文明への憧れ。巨大な破壊力を見せつけた原爆も、人類がしっかりとした倫理観を持って核エネルギーを制御して活用すれば、「人々の豊かさと幸せ」に貢献する。原発の売り込みと核実験で高まった反米感情を和らげるという米国の情報操作が働いていたにせよ、これが当時の、原子力に対する日本人の素朴な反応と言えよう。

 1955年8月の開館から1年もたたないうちに原爆資料館で、大々的に開催された「原子力平和利用博覧会」。放射線事故など起きないという原発の「安全神話」の前に、放射線後障害に苦しむ被爆者の存在は、核兵器がもたらした「別の問題」として扱われた。

 広島・長崎以後、これまで核戦争を辛うじて防止し得たのは幸いである。しかし、核兵器開発競争や原発利用の拡大、劣化ウラン弾の使用などによって、見えざる放射能脅威は、絶えることなく続いてきた。放射線被害者である無数の新たなヒバクシャや放射能汚染地帯を世界中につくり出してきたのだ。

 私自身がそのことの深刻さに気づいたのは、1980年代後半のこと。取材を通じて、核兵器開発や原発事故などで世界各地に生まれている新たなヒバクシャの悲惨な現実に出合ってからだ。「過ち」を繰り返さないためには、戦争を否定し、核兵器を地上から無くすための努力だけでは不十分である。これ以上、ヒバクシャを生み出してはならないのだ。

 しかし、福島第1原発での大惨事は、被爆国の日本人自らがすでに過ちを犯したことを意味する。遅きに失するとはいえ、核エネルギー依存からの脱却を図るために、あらゆる知識や技術、資金、政治力を結集すべきである。そのことが広島・長崎・ビキニ、そして今回の事故から学ぶ教訓であり、碑文に応える道でははないだろうか。

(2011年7月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ