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社説・コラム

コラム 視点『原発同様、核抑止力の「安全神話」からも脱却を』 

■センター長 田城 明

 広島・長崎両市の今年の「平和宣言」の最大の特徴は、3月の東京電力福島第1原発事故を受けて、従来の原発依存から再生可能エネルギー利用への政策転換を政府や社会に求めた点にあった。

 広島市の松井一実市長と長崎市の田上富久市長の訴えには、表現上の違いはある。が、底流にあるのは、時間を要しても「脱原発」社会を目指すべきであるとの考えだ。核兵器廃絶や世界平和の実現を主眼に据えた過去の平和宣言の歴史において、核の「平和利用」に否定的立場を表明するのは、両市とも初めてのことである。

 「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆地からすれば、当然の帰結とも言える。間もなく退陣するとはいえ、被爆国のリーダーである菅直人首相も、原発事故による甚大な放射能被害に直面し、推進の立場を百八十度転換。「原発に依存しない社会」を目指すとした。新政権には、実現の時期や方法など具体的なビジョンを明示して、そのための政策を着実に推進してもらいたい。

 フクシマの惨禍は、子どもからお年寄りまで多くの人々に、放射能被害の恐ろしさを知らしめた。しかし、そのことがもう一つの核エネルギー依存、より危険で深刻な「核抑止力」の見直しに十分つながっていないのは残念である。

 田上市長は平和宣言の中で、私たちの多くがいつの間にか原発の「安全神話」を信じてきた例を挙げながら、こう問い掛けた。「核兵器の抑止力により世界は安全だと信じていないでしょうか。核兵器が使われることはないと思い込んでいないでしょうか」

 意図的であれ、偶発的であれ、熱線や爆風を伴う核兵器がひとたび使用されたならば、その被害は想像を絶するものになる。「核の傘」に依存するとは、最たる非人道兵器である核兵器で仮想敵国の人々を攻撃し、自国民をもその攻撃にさらす危険を負うことを意味する。

 原発の「安全神話」がもろくも崩れたように、いつ核抑止力が破綻し、使用されるかもしれないのだ。

 今回の原発事故を「人類にとっての新たな教訓」と受け止め、原発依存からの脱却を唱えながら、いまだに米国の「核抑止力」の必要性を説く菅首相。被爆国として核兵器廃絶実現のために「国際社会の先頭に立って取り組む」との決意も、世界の多くの国々や反核運動に積極的な非政府組織(NGO)からすれば、説得力の乏しい空疎な言葉としてしか響かない。

 核兵器を保有していない非同盟諸国やスイスなどの先進国は、幾つもの国際NGOと連携しながら、核兵器禁止条約(NWC)の早期交渉実現に向けて活発な動きを見せている。条約の「核」になっているのは、核兵器が持つ「非人道性」である。国際法で明確に核兵器を禁止することで、核拡散防止条約(NPT)への加盟、非加盟国を問わず、すべての核保有国の核兵器を全廃しようというものだ。

 20世紀の科学文明が造りだした原爆と原発。同じ核エネルギー利用の惨禍を身をもって体験した日本人には、脱原発を目指すだけでなく、これまで以上に「核兵器なき世界」の実現に向け、貢献していく使命が課せられていると言えよう。そのために必用なのは、核兵器に象徴される「力の政治」に依拠した安全保障の発想から抜け出し、地球規模で「人間の安全保障」を求める思想に立たなければならない。

 151カ国・地域の約5千都市に広がった平和市長会議を含め、「人間の安全保障」を優先した世界の実現を求める市民社会の役割が、一段と高まっている。田上市長も、核兵器禁止条約の締結や、北東アジア非核兵器地帯の創設に向けた日本政府の取り組みを強く求めた。今こそ政府は、その要請に真摯(しんし)に応えるべきときである。

(2011年8月22日朝刊掲載)

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