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社説・コラム

『潮流』 「あの日」から半年が過ぎ

 東日本大震災から半年を前に福島から宮城、岩手の3県を車で回った。「実際に見るべきだよ」。仙台市郊外で被災した学生時代からの友人が案内してくれた。

 3月11日が引き起こした現実の一端に遅ればせながら触れると、この言葉が込み上げてきた。

 「スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ」。郷里広島で8月6日を体験した作家原民喜が表した「夏の花」の一節である。

 広島は爆心地を中心に半径約2キロにわたって全壊全焼した。宮城県第2の都市、石巻市の浸水区域だけでそれを超える。三陸地方の沿岸は海岸線が入り組み、山が迫る。平地に出るたび、鉄路や駅舎もはぎとられ、野積みとなったがれきが続く廃虚が現れる。

 高さ10メートル、総延長2・4キロ。世界最大級の防潮堤が張り巡らされていた岩手県宮古市の田老地区も跡形がなかった。それでも市の調査によると、地区住民の73%が市内での住居移転を検討しているという。生まれ育った土地への愛着の深さがうかがえる。

 福島第1原発の事故で役場も移転した内陸部の飯舘村。庁舎前に設けられた放射線量計は毎時3・1マイクロシーベルトと表示していた。

 2万人近い死者・行方不明者にとどまらず、全壊家屋は3県で約10万5千戸に上る。原発事故の収束も見えない。地域社会が根こそぎ破壊された意味でも、「3月11日」の被害の甚大さは時空を超えて「8月6日」と重なり合う。

 被爆半年後の広島市中心部を収めた映像がある。がれきがいまだ広がり、馬車が走る。

 市の復興審議会は1946年2月に始まり、政府にさまざまな要請をする。国の特別立法はできたものの、復興事業が本格化するのは被爆から4年も後だった。今、その轍(てつ)を踏むべきではなかろう。 (平和メディアセンター編集部長 西本雅実)

(2011年9月16日朝刊掲載)

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