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社説・コラム

『潮流』 今顧みる「学徒出陣」

■文化部長 佐田尾信作

 「今年は6人。少なくなったもんです」。夜になるともう肌寒い和歌山・高野山。古刹(こさつ)の大円院宿坊にある湯船で、横浜市の阿山剛男さん(88)がつぶやいた。

 呉市の大之木グループ代表、大之木英雄さん(89)に誘われ、この地での第14期海軍飛行予備学生の慰霊祭に参列させてもらった。  1943(昭和18)年9月、東条英機内閣は文科系学生の徴兵猶予を停止した。14期予備学生はそれまでの志願とは違い、徴兵による「学徒出陣」だ。

 翌10月、東京・明治神宮外苑競技場(現国立競技場)で盛大な壮行会が催される。そして南西諸島方面への特攻などで3323人のうち411人が戦死・殉職した。

 戦後、大円院の墓地に「あゝ同期の桜の塔」が建立される。生き残った14期会の人たちは、大勢で集っては仲間をしのんできた。だが今年は同期生が6人、遺族を含めても30人ほどに。

 早稲田大出身の阿山さんは艦上攻撃機「天山」偵察員だった。14期会の名簿を持っている。1996年の改訂を最後に、その後の消息は赤ペンで書き入れてきたという。学徒たちの生と死が、その一字一字に凝縮されている。

 宴席では特攻が話題になった。「零戦に乗った連中はまだよかったよ」「『桜花』や『白菊』なんて悲惨だった」。桜花は今で言えば有人ロケット爆弾、白菊は偵察員教育の練習機だった。

 軍部はなぜ、展望のない特攻という戦法へ突き進んだのか。ペンを銃剣に持ち替えた学徒出陣を顧みると、自由な言論や学術を守り支える不断の努力の大切さが身に染みる。

 2年後は学徒出陣70周年。14期会は1年早く、来年5月に東京で記念の総会を開く。一人でも多くの参加を願ってのことだ。

(2011年9月30日朝刊掲載)

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